目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第45話 毒舌の影響


 カロンの批評が地方紙と首都の美術誌に転載されてから、一週間も経たないうちに、波は確実に押し寄せてきた。


 最初に変化を知らせてきたのは、小さなギャラリーのオーナーだった。

「申し訳ないが、来季の展示、別の作家に変えることにした」

 受話器越しに、理由はぼかされた。

 だが、ナイルにはわかっていた。新聞だ。あの辛辣な文章だ。


 翌日、別のアートフェアの事務局からも連絡が入り、「枠の関係で」と告げられた。

 三件目のキャンセルが届いたとき、ナイルはついに声を荒げた。


「ふざけてる! たかが一人の評論家の言葉で全部判断するなんて!」

 事務所の机を掌で叩き、積んであったカタログが揺れる。

 ユンは隣の椅子で黙って書類をまとめていたが、その手がわずかに止まった。


「ユン、お前だって悔しいだろ? あんな冷たい書き方、普通じゃない」

 ナイルは低く唸るように言った。

「……悔しいよ。でも……もしかしたら、本当にそう見えてるのかもしれない」

 その答えに、ナイルの眉が一瞬跳ね上がる。

「おい、そんな弱気な——」

 言いかけて、ナイルは唇を噛んだ。

 画商として、作家に弱気を植え付けるわけにはいかない。

 だが同時に、ユンの声の奥にある迷いを感じ取ってしまっていた。


 数日後、ヴァロワが黒いコートの襟に雪をつけて事務所に現れた。

「お前ら、まだあの批評の話してんのか」

 ナイルが苛立ちを隠さず睨む。

「してるに決まってるだろ。展示のキャンセル、そっちにも来てるはずだ」

「来てるさ。でも——」ヴァロワはわざと肩をすくめてみせた。「売れりゃそれでいい。批評なんざ腹は膨れねえ」


 軽口に聞こえたが、ユンはその横顔に一瞬、影を見た。

 ヴァロワの目の奥で何かが揺れている。

 カロンの言葉は、彼にも深く刺さっていたのだ。


「……本気でそう思ってるの?」ユンが静かに問う。

「さあな」ヴァロワは笑った。

 「描き続けりゃ、答えは出るだろ」


 ナイルは二人を交互に見やり、グラスを持ち上げたが、口をつけずにそっとテーブルへ戻した。

「……答え出す前に、こっちは次の展示を取ってこなきゃならん」


 その夜、ユンは一人でアトリエにいた。

 窓の外では雪混じりの風が吹き、街の灯りが滲んでいる。

 キャンバスの前に立つが、筆は動かない。


 ——借り物の魂。

 カロンの声が、あの冷たい文章のまま蘇る。

 他人事のような響きなのに、どこかで自分の内側から出てきた声のようでもあった。


 描きたいものは確かにあるはずだ。けれど、それは本当に自分だけのものなのか。

 過去に見た名画、意識せずなぞった構図、無難に整えた色彩——それらを切り離して、自分の絵は残るのか。


 雪が窓を叩く音がする。ユンは筆を手に取ったが、また置いた。


 週末、三人で予定していた小さなグループ展を見に行った。

 会場でユンとヴァロワの姿を見た他の作家が、一瞬視線を交わす。

 その中には同情もあれば、好奇もあった。

 ナイルはそれらを正面から睨み返し、歩を緩めなかった。


 帰り道、雪を踏みながらナイルが言った。

「……ユン、いいか。売れなきゃ意味がない。でもな、売るためには描き続けるしかないんだ」

 それは商売人の言葉であり、同時に信頼する画家への励ましでもあった。


 ユンは黙って頷き、夜の街へ消えていくナイルとヴァロワの背を見送った。

 自分は、まだ描けるだろうか——いや、描くしかない。


 その夜、アトリエの灯が再びともった。

 今度は、筆を置かなかった。

 乾いた絵皿の底に残った古い絵具を削り落とし、新しい色を絞り出す。

 群青、カドミウムレッド、そしてわずかな白。

 寒さで固くなった指先をこすり合わせながら、最初の一筆をキャンバスへ引いた。

 それは形にもならない線だったが、ユンにははっきりわかった——自分だけの呼吸が、そこにあった。

 雪の夜は長い。

 けれど、今はその長ささえ、描きたいという衝動を削ぐものではなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?