カロンの批評が地方紙と首都の美術誌に転載されてから、一週間も経たないうちに、波は確実に押し寄せてきた。
最初に変化を知らせてきたのは、小さなギャラリーのオーナーだった。
「申し訳ないが、来季の展示、別の作家に変えることにした」
受話器越しに、理由はぼかされた。
だが、ナイルにはわかっていた。新聞だ。あの辛辣な文章だ。
翌日、別のアートフェアの事務局からも連絡が入り、「枠の関係で」と告げられた。
三件目のキャンセルが届いたとき、ナイルはついに声を荒げた。
「ふざけてる! たかが一人の評論家の言葉で全部判断するなんて!」
事務所の机を掌で叩き、積んであったカタログが揺れる。
ユンは隣の椅子で黙って書類をまとめていたが、その手がわずかに止まった。
「ユン、お前だって悔しいだろ? あんな冷たい書き方、普通じゃない」
ナイルは低く唸るように言った。
「……悔しいよ。でも……もしかしたら、本当にそう見えてるのかもしれない」
その答えに、ナイルの眉が一瞬跳ね上がる。
「おい、そんな弱気な——」
言いかけて、ナイルは唇を噛んだ。
画商として、作家に弱気を植え付けるわけにはいかない。
だが同時に、ユンの声の奥にある迷いを感じ取ってしまっていた。
数日後、ヴァロワが黒いコートの襟に雪をつけて事務所に現れた。
「お前ら、まだあの批評の話してんのか」
ナイルが苛立ちを隠さず睨む。
「してるに決まってるだろ。展示のキャンセル、そっちにも来てるはずだ」
「来てるさ。でも——」ヴァロワはわざと肩をすくめてみせた。「売れりゃそれでいい。批評なんざ腹は膨れねえ」
軽口に聞こえたが、ユンはその横顔に一瞬、影を見た。
ヴァロワの目の奥で何かが揺れている。
カロンの言葉は、彼にも深く刺さっていたのだ。
「……本気でそう思ってるの?」ユンが静かに問う。
「さあな」ヴァロワは笑った。
「描き続けりゃ、答えは出るだろ」
ナイルは二人を交互に見やり、グラスを持ち上げたが、口をつけずにそっとテーブルへ戻した。
「……答え出す前に、こっちは次の展示を取ってこなきゃならん」
その夜、ユンは一人でアトリエにいた。
窓の外では雪混じりの風が吹き、街の灯りが滲んでいる。
キャンバスの前に立つが、筆は動かない。
——借り物の魂。
カロンの声が、あの冷たい文章のまま蘇る。
他人事のような響きなのに、どこかで自分の内側から出てきた声のようでもあった。
描きたいものは確かにあるはずだ。けれど、それは本当に自分だけのものなのか。
過去に見た名画、意識せずなぞった構図、無難に整えた色彩——それらを切り離して、自分の絵は残るのか。
雪が窓を叩く音がする。ユンは筆を手に取ったが、また置いた。
週末、三人で予定していた小さなグループ展を見に行った。
会場でユンとヴァロワの姿を見た他の作家が、一瞬視線を交わす。
その中には同情もあれば、好奇もあった。
ナイルはそれらを正面から睨み返し、歩を緩めなかった。
帰り道、雪を踏みながらナイルが言った。
「……ユン、いいか。売れなきゃ意味がない。でもな、売るためには描き続けるしかないんだ」
それは商売人の言葉であり、同時に信頼する画家への励ましでもあった。
ユンは黙って頷き、夜の街へ消えていくナイルとヴァロワの背を見送った。
自分は、まだ描けるだろうか——いや、描くしかない。
その夜、アトリエの灯が再びともった。
今度は、筆を置かなかった。
乾いた絵皿の底に残った古い絵具を削り落とし、新しい色を絞り出す。
群青、カドミウムレッド、そしてわずかな白。
寒さで固くなった指先をこすり合わせながら、最初の一筆をキャンバスへ引いた。
それは形にもならない線だったが、ユンにははっきりわかった——自分だけの呼吸が、そこにあった。
雪の夜は長い。
けれど、今はその長ささえ、描きたいという衝動を削ぐものではなかった。