初冬の寒さが少し和らいだある日、ユン、ヴァロワ、ナイル、ミレイユの四人は、日常の喧騒と重苦しい批評の嵐から一時的に離れるため、小さな海沿いの村へと旅立った。
荒れた市場と評論家たちの冷たい視線に押しつぶされそうになった心を癒し、新たな風を取り込むための、静かな気分転換だった。
車が村へと近づくにつれて、海からの冷たい潮風が車窓を撫で、どこか懐かしい磯の香りが鼻をくすぐった。
小さな漁村の家々は風雪に耐え、質素ながらも温かみのある佇まいを見せている。港には大小様々な漁船が停泊し、網を繕う漁師たちの姿が見えた。
四人はその村で古びた宿に泊まり、散策を始めた。
市場の活気とは違う、ゆったりとした時間の流れが彼らの心を少しずつ解きほぐしていく。
海岸線を歩きながら、ユンはこれまでの緊張と焦燥を忘れ、ただ波の音に耳を傾けた。
そんな中、港の片隅で一人の老漁師と出会った。
深く刻まれた皺の中に人生の豊かさを感じさせる男は、昼間の漁から戻り、船の甲板を拭いていた。
ミレイユがにこやかに話しかける。
「こんにちは。遠くから来ました。この村は初めてです。」
老漁師はにっこりと笑った。
「そうかい。珍しい客だ。よく来たな」
ナイルが村のことや、四人の仕事の話を少しすると、老漁師は興味深そうに目を細めた。
「絵を描くんだってな?面白い話だ。俺もな、海のことばかり考えているが、魚と絵は似ていると思うんだ」
ユンが興味を持ち、尋ねた。
「魚と絵が似ている……ですか?」
老漁師はゆっくりと頷き、波の音にかき消されそうな声で言った。
「魚はな、獲ったその日が一番旨いと言われている。新鮮なほど味わい深い。絵も同じだ。描いたその日、その瞬間が一番生きている。時間が経てば、どんなに立派な作品でも、色は褪せ、感触は薄れていく。だから、絵を描く者は、今日の一枚に魂を込めなきゃならん」
ミレイユが頷きながら言う。
「なるほど、だからこそ“今”描くことに意味があるのね。私たちも時に評価や結果ばかり追い求めて、目の前の感覚を見失いがちだったわ」
ヴァロワも感心した様子で言った。
「確かに、完成を急ぐあまり、本当に感じた瞬間を逃してしまうことはあるかもしれないな」
ナイルも深く頷く。
「市場の動向や売買のことばかり考えていると、作品の本質を見失う。漁師さんの言葉は、僕たちにとっても大切な教えだ」
老漁師はにっこりと笑いながら、手に持った古びたナイフで甲板の板を軽く叩いた。
「魚だってな、獲ってすぐに食わなきゃ意味がねえ。置いておくほど味は落ちる。絵も同じだ。描いた時の気持ち、その熱量、その日の祈りが最も大切なんだよ」
四人は港の景色を眺めながら、静かな時間を共有した。
砕ける波の音とともに、過去の失敗や不安、批評の言葉が少しずつ和らいでいくのを感じた。
その夜、ユンは海の見える部屋でスケッチブックを開いた。
漁師の言葉が脳裏にこだまし、彼女の手は自然と動き出す。
寒さに震えながらも、今この瞬間の感覚をキャンバスに刻み込もうとした。
描くたびに心が軽くなり、沈みかけていた自分の中の炎が少しずつ燃え上がるのを感じた。
評価や結果を気にせず、ただ目の前の風景と向き合うこと。
その行為そのものが、彼女にとっての祈りであり、希望だった。
翌朝、四人は村の小さな港を離れ、再び旅路へと出発した。
ユンの心には漁師の言葉と海の風景が温かく残り、これからの表現に新たな力を与えてくれるだろうと確信していた。
「絵は魚と同じ、描いた日が一番旨い——」
その言葉が、彼女の中で一生の教えとなることを、まだ誰も知らなかった。
潮騒の中に響く老漁師の声は、彼らの未来を静かに照らす灯火のようだった。