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第51話 再び描く手


  村を離れる前夜、ユンはどうしても気になる場所があった。

 港から少し離れた丘の上に、石造りの小さな礼拝堂があると、宿の女将が話していたのだ。

「もう誰もちゃんと使ってないけれど、中には昔の壁画が残っているんですよ。でも……もう色もすっかり褪せてしまって」

 その言葉が、ユンの胸の奥で静かに鳴り響いた。

 彼女は、まるで呼び寄せられるように、その礼拝堂へと向かった。


 夕暮れの光が斜めに差し込む中、礼拝堂の木の扉を押し開けると、冷たい空気と共に、ほのかな香が漂ってきた。中は薄暗く、祭壇の上方にある壁一面に、かつて鮮やかだったであろう壁画が広がっている。

 しかし今は、その色彩はほとんど失われ、ひび割れた漆喰の隙間から素地が覗いていた。


 モチーフは聖人と海。

 聖人の足元には波間から顔を出す魚たちが描かれ、空には光が降り注いでいるはずだった。しかし、今や海は灰色に沈み、魚の形もぼやけている。

 ユンは、そこで静かに立ち尽くした。

 批評家たちが論じる「構図の完成度」や「色彩の革新性」といった言葉が、この場所では意味を持たない。

 ただ、ここには長い年月を生きてきた村の祈りと、今もそれを大切に思う人々の心だけがある。


 不意に背後から声がした。

「描き直すのかい?」

 振り返ると、昼間港で会った老漁師が立っていた。

 漁師は、壁画を見上げた。

「これはな、わしが子どもの頃からここにある。結婚式も、嵐の後の祈りも、みんなこの前でやったもんだ。けど、もう誰も直せない。村に画家なんぞいないからな」


 ユンは胸の奥で何かが決壊するのを感じた。

 批評家に挑むための絵ばかりを描き続け、気づけば誰かの笑顔のために筆を取ることを忘れていた自分。

 その手を、いま再び動かす理由が、ここにあった。

「……描かせてもらえませんか。この壁画を、もう一度」

 老漁師は目を細め、ゆっくり頷いた。


 翌朝、礼拝堂にはユンのスケッチ道具と顔料、そして簡単な足場が運び込まれた。

 ヴァロワとナイルが手際よく準備を手伝い、ミレイユは村の子どもたちを集めて外で遊ばせながら時折中を覗く。

 最初に行ったのは、欠けた漆喰の補修だった。

 指先で粉を払い落とし、薄く下地を塗る。そこに、消えかけた線を丁寧になぞるように鉛筆で輪郭を起こしていく。

 古い色が残っている部分は、その調子や質感を可能な限り再現した。


 外では、海からの風が小窓を鳴らしている。

 潮の香りがふわりと漂い、彼女の集中を邪魔するどころか、むしろ筆先を導くようだった。

 昼になると、村人たちが差し入れを持ってきた。

 温かいスープや焼き立てのパン。

 壁画を描く様子を見つめる彼らの瞳には、期待と懐かしさが入り混じっていた。


 三日目の午後、聖人の顔に再び命が宿った。

 褪せた目元に光を描き込み、頬にかすかな血色を与えると、そこに不思議な温もりが立ち上った。

 海も徐々に青を取り戻し、魚たちが跳ねる姿が蘇る。

 ユンは息を整え、最後に空から降り注ぐ光を描いた。

 金と白を混ぜた筆先が、ひび割れた壁に柔らかな輝きを落とす。


 完成の日、礼拝堂には村人全員が集まった。

 老漁師が前に進み出て、壁画の前で立ち止まる。

「……戻ったな、あの頃の海が」

 その声には震えがあった。

 子どもたちは魚の部分を指差してはしゃぎ、年配の女性たちは静かに手を合わせた。


 ユンは笑みを浮かべながらも、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 批評家の評価も、都会の画廊も、この瞬間には何の意味もなかった。

 ただ、目の前の笑顔がすべてだった。彼女は老漁師に向かって小さく頭を下げる。

「教えてくれて、ありがとうございました」

「いや……お前さんが思い出させてくれたんだ。絵ってのは、こうやって人の心に届くもんだってな」


 礼拝堂を出ると、夕暮れの海が広がっていた。

 光を受けた波は壁画と同じ青で、彼女の胸の奥で静かに揺れていた。

 ユンは再び、自分の手が描く理由を知った。

 それは名声や論評ではなく、ただ誰かのために、そして自分のために。彼女の筆は、再び生きたのだ。


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