村での滞在を終え、再び街に戻ったユンたちは、それぞれの制作に取りかかった。
ユンは礼拝堂での経験を胸に、村人たちの笑顔を糧に静かに筆を進めていた。
一方のヴァロワは、どこか落ち着かない様子だった。
彼はアトリエの奥で、白い大きなキャンバスを前に何度も立ち尽くしていた。
手元のスケッチブックには、奇妙な線と色の断片だけが重ねられ、人物も風景も存在しない。
ある日、ユンが様子を見に行くと、彼は筆を宙で止めたまま、何かを睨みつけるようにしていた。
「……迷ってるの?」
ユンの問いに、ヴァロワはゆっくり首を横に振った。
「いや、迷ってはいない。今、俺は“売れる”とか“評価される”とか、そういうものを全部忘れて描こうとしている。自分の中の衝動だけを信じたい」
その声には確信があったが、どこか焦燥も混じっていた。村での出来事が彼の心を揺らしたのだろう。
ユンが村人のために描く姿を間近で見て、何かを試さずにはいられなくなったのかもしれない。
日々、彼は夜更けまで筆を動かした。
色は激しくぶつかり合い、形は崩れ、時に破られた紙片や金属片までがキャンバスに貼り付けられた。
テーマもモチーフも説明不能。
ただ、そこには彼自身の感情のうねりが剥き出しになっていた。
やがて完成した数点の作品は、街の小さなギャラリーで発表されることになった。
搬入の日、ギャラリーのオーナーは一瞬言葉を失い、その後に薄い笑みを浮かべた。
「……挑戦的ね。でも、正直、どう反応されるかは分からないわ」
オープニング当日。
来場者はそこそこの数がいたが、作品の前で立ち止まる時間は短かった。
ある中年の客は首をかしげ、若いカップルは笑いを噛み殺して通り過ぎていった。
会場に流れる空気は、沈黙とも、戸惑いともつかない重さを帯びていた。
そこへ、予想通りの人物が現れた。
批評家カロンである。彼は腕を組み、ヴァロワの作品の前に立ち、無言で数分眺めた。
そして、メモ帳を閉じると、皮肉を混ぜた笑みを残して去っていった。
翌朝、新聞にはその批評が掲載された。見出しにはこうあった。
「迷走するヴァロワ――抽象の海に沈む才能」
記事は辛辣だった。
「ヴァロワは確かに技巧と発想を持っている。しかし今回の作品群は、観客に向けられた橋を自ら壊し、孤独な内面の迷宮に閉じこもった結果だ。色彩は暴れ、形は溶け、そこに意志の筋道は見えない。これは挑戦ではなく、逃避である」
その文章を読んだヴァロワは、机に肘をつき、しばらく顔を覆っていた。
ユンが声をかけると、彼は笑った。
「……やっぱりな。俺は覚悟してた。売れるとか評価されるとか、そういうのを捨てたつもりだったのに、内心ではまだ期待してたんだろうな」
「反応が薄いと、やっぱり辛い?」
「辛いさ。でも……不思議だ。あの時は本当に、何かを描ききった感覚があった。だけど、それが他人には届かないってことも、はっきり分かった」
ユンは静かに彼の隣に座り、言葉を選んだ。
「届かない時もある。でも、それでも描きたいなら続けるしかない。批評や市場の声は時に正しいけど、それが全てじゃない」
ヴァロワは窓の外を見やった。
通りを行く人々は誰も彼の作品のことなど知らない。
それでも、彼の中にはまだ何かが残っていた。カロンの酷評にも消されない、小さな炎のようなものが。
「……もう一度やるさ。今度は、逃げじゃない挑戦をな」
ユンは頷いた。
迷走は無駄ではない。
それは、何を描くべきかを探し当てるための、必然の道筋なのだと。
アトリエには再び、絵具と溶剤の匂いが満ちていった。
ヴァロワの筆はまだ迷いの中にあったが、その迷いこそが次の一歩を形作ると、彼自身も薄々感じていた。