その日、アトリエの扉が控えめに叩かれた。
ユンが筆を置いて開けると、見知らぬ中年の女性が立っていた。
整った身なりに、柔らかい笑み。しかし、その視線には商談に臨む人間特有の計算が潜んでいた。
「失礼いたします。私はある方の代理で参りました」
女性は名刺を差し出した。
そこには小さく「美術コーディネーター」と書かれている。
ユンが椅子を勧めると、女性は静かに本題を切り出した。
「実は……あなたの小品を一点、個人的に購入したいという依頼がございます」
それだけなら珍しい話ではない。
しかし、女性が続けた言葉に、ユンは思わず眉を動かした。
「ご依頼主は……批評家のカロン氏の知人です」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざらついた。
つい先日まで、新聞紙面で作品を「魂の欠落」とまで断じた人物。
その知人が、自分の絵を求めるというのだ。
「カロン氏ご本人が購入されるわけではありません。ですが、ご依頼主はカロン氏からあなたの名前を聞いたそうです」
女性は穏やかに付け加えたが、その情報はかえって皮肉を濃くした。
酷評の対象として語られた名前が、どういう経緯で「欲しい作品」へと変わったのか。
ユンは内心を押し隠し、淡々と聞いた。
「どの作品をご希望ですか?」
「以前、地方の芸術祭で展示された小品。『朝の祈り』というタイトルだったと伺っています」
あの作品――小さなキャンバスに、白い光に包まれる礼拝堂の内部を描いたもの。
祭の会場で、足を止めて見入る人が少なからずいたが、評論家の目には届かなかったはずだ。
それを今になって求められるとは。
「直接お話しできれば早いのですが、ご依頼主は表に出ることをお望みでないようでして」
女性は事務的に微笑んだ。
まるでその背後にある複雑な事情など無いかのように。
ユンは少し間を置き、静かに答えた。
「分かりました。条件や価格はお任せします。 ただ……お伝えください。私は、その作品を誰かに喜んでもらえるなら喜んで手放します。でも、それが皮肉や興味本位のためであれば、どうか再考してほしいと」
女性は小さく頷き、淡々とメモを取った。
その後、代金や配送の細部が決まり、商談は驚くほどスムーズに進んだ。
取引が終わった後、ヴァロワが戻ってきた。
ユンは事情を話すと、彼は口の端を歪めて笑った。
「カロンの知人が? 面白いじゃないか。もしかしたら、カロン自身が欲しいけど、名前を出すのが嫌で知人を使ったのかもな」
「そんなこと……」とユンは否定しかけたが、完全には言い切れなかった。
カロンの冷徹な文章の裏に、別の感情が隠れている可能性はゼロではない。
数日後、作品は丁寧に梱包され、配送業者の手に渡った。
その夜、ユンはふと考え込んだ。
もしも本当にカロンが手元に置くために求めたのだとしたら――それは彼の批評とどう折り合いをつけるのだろう。
酷評と秘かな所有、その矛盾は何を意味するのか。
翌日、代理人の女性から短いメッセージが届いた。
「作品は無事に届きました。ご依頼主はとても喜んでおられます、とのことです」
感謝の言葉も、批評もない。
ただ「喜んでいる」という事実だけが伝えられた。
それは、カロンの文章よりもずっと静かで、しかし深く心を揺らす報せだった。
ユンは窓辺でそのメッセージを見つめ、長く息を吐いた。
――喜んでくれるなら、それでいい。
理由が何であれ、絵が誰かの心を満たしたのなら。
そしてふと、彼女は筆先に残った淡い青の絵具を見つめた。
あの色は礼拝堂の朝の光を閉じ込めた色。
遠く離れたどこかで、それが今、誰かの部屋を静かに照らしている――そう思うと、胸の奥で、わずかな温もりが広がった。
外では、夕暮れの光がアトリエの壁を赤く染めていた。
皮肉な依頼は、彼女に奇妙な安堵と、解けない謎を同時に残していった。