ヴィンセントは、久しぶりに軍の医療施設を訪れた。
――実に、1ヶ月ぶりだった。
ジョージは病室のベッドに横たわっていた。
目を瞑っていたが、意識はあった。
胸の上には1冊の本が伏せられている。
擦れた表紙に、うっすらと銀の文字が読めた。
『Notes from Underground-地下室の手記-』。著者: フョードル・ドストエフスキー。
ヴィンセントはそれをちらりと見て、わずかに眉をしかめた。
「……地下室かよ。
お前、そんなとこにまだ潜るつもりか?」
冗談めかした口調で言いながら、彼は傍の椅子に腰を下ろした。
ジョージは少しして、ゆっくりと目を開けた。
「……生きてたのか」
その声には、ほんの微かな驚きが滲んでいた。
まるで、本当にもう二度と会わないと思っていたかのように。
ヴィンセントは肩をすくめた。
「……ま、ギリな。3週間、檻の中だったけどな。
お前のために軍のルール破った代償ってやつ」
そして、軽く息を吐きながら、側の椅子に座った。ポケットからスマホを取り出す。
指先で回転させながら、気だるげに言う。
「……お前のせいで辞めることになったぞ」
ジョージは静かに、本を胸から下ろし、脇に置いた。
「……そうか」
ただ、それだけだった。
「まあ、いいさ。
俺は自分のやるべきことをやった。
後悔はねぇ」
——ただ、ここで相棒ともお別れだ。
そう思うと、ふと視線がジョージの顔に落ちた。
いつも通りの無表情。
だが、これを見るのも、もしかしたら最後かもしれない。
ジョージの事だ。
きっと、これからも軍に残り続けるだろう。
ヴィンセントはほんの一瞬、目を伏せた。
だが、それを悟られないように、スマホを指で弾いて画面を点ける。
通知はなかった。
ただのクセだ。無意識に確認してしまう。
それでも、今はなぜか、それが少しだけ気休めになった。
少しの間、沈黙が流れた。
やがて、ジョージがぽつりと口を開いた。
「俺も負傷兵で除隊になった。
……傷が深かったらしい。後遺症も残るそうだ」
ヴィンセントは一瞬だけ目を見開いた。
「……後遺症?」
「ああ、腹をやられた。腸だ。
食えば、そのぶんだけ、鈍く痛む。
……もう、満腹も、酔うのも無理だ」
あまりにも淡々とした口調だった。
それが冗談でないことは、表情を見るまでもなく分かった。
いつものように気にした様子もなく、窓の外に目をやっていた。
まるで、そういう体になったことさえ、ただの「仕様変更」に過ぎないと言うように。
一方のヴィンセントは返す言葉を見つけられなかった。
食べることが、こいつにとっては罰になった。
そう思った瞬間、喉の奥がひどく詰まった。
あの夜、ジョージは撃たれ、血まみれになりながらも敵を引きつけようとした。
その回復が簡単で済むはずがなかった。
戦場で使えなくなった兵士は、軍にとっては負債だ。
除隊は、必然だった。
ヴィンセントはスマホをポケットに戻し、立ち上がってジョージを見下ろした。
「除隊か。まぁ、ちょうどいい」
「何が?」
「俺たちの会社を作ろう」
ジョージは微かに眉を寄せた。
「会社?」
ヴィンセントは手を広げ、いつものように豪快に笑った。
「ああ、俺たちの会社だ。
軍を辞めても、戦いの場はある。
俺たちみたいな奴を必要とするやつらは山ほどいる。
俺たちが、本当に守りたいものを守るための会社だよ!!」
ジョージはしばらくヴィンセントを見つめていたが、やがて静かに目を閉じた。
「……お前がやるなら、好きにしろ」
ヴィンセントはニヤリと笑った。
「お前も軍を辞めたなら、俺と組め」
ジョージは何も言わなかった。
だが、ヴィンセントには分かっていた。
ジョージは、否定しなかった。
それで十分だった。
枕元に置かれた『地下室の手記』が、静かにページを閉じていた。
それはまるで、誰にも見えない返事のようだった。