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依頼編

000:プロローグ

 怒りも、憎しみも、引き金に火をつけたことは分かっていた。

 死ぬことは怖くない。覚悟ならとっくに済ませた。

 だが今はその時じゃない。


 黒のSUVが必要に何度も衝突を繰り返す。


 ジョージはハンドルを握り直し、バックミラーをちらりと確認した。

 暗闇に浮かび上がるヘッドライトは、猛獣のように鋭く光っている。

 次の瞬間、甲高い鋭い音とともに、フロントガラスにクモの巣状のヒビが走った。


 ジョージは瞬時に悟った――撃たれた。

 カーブが迫る。

 左手には切り立った崖、右手には急斜面と木々——ほぼ崖のようなものだ。


 ジョージは呼吸を整え、素早くギアを落としてカーブへ突っ込む。

 タイヤがアスファルトを引っ掻き、車体はギリギリのバランスでコーナーを抜けた。


 だが、敵も食らいついてくる。

 視界のほぼ半分がひび割れたガラスで覆われている。

 このままでは何も見えない。


 ジョージは左手でサイドウィンドウのスイッチを指でたたく。


 ……反応なし。


 電気系統がやられている。

 ジョージは舌打ちした。

 発砲は跳弾のリスクあり。


 迷う時間はない。

 ジョージは即座にポケットからタクティカルペンを抜き、鋼の先端をガラスの隅に突き立てる。

 鈍い衝撃音が響き、ヒビが一気に走る。

 もう一撃。


 砕ける音とともに、ガラスが粉々に弾け飛んだ。

 風が激しく車内に吹き込み、息が詰まりそうな勢いだった。


 その瞬間――SUVが斜め後方から激しく体当たりを仕掛けてきた。

 鈍い音が響く。セダンの車体が大きく揺れ、ハンドルを取られる。


 ジョージは両腕に力を込め、必死に修正する。

 だが、崖までの距離はますます危険なほど近づいていた。

 ガードレールはない。


 ――このままじゃ押し出される……!


 ジョージは前方を見た。


 ――カーブがある。


 「賭けてみるか。」


 ジョージは意を決し、急ブレーキを踏み込んだ。

 SUVが勢い余って前へ出る――

 そうなれば、カーブを曲がりきれずに突っ込むはずだ。


 SUVのヘッドライトが横を通り過ぎていく――

 その瞬間、フロント右側で 「ボンッ!!」 という鈍い破裂音が響いた。」


 「……バーストか!」


 タイヤが破裂した。


 ハンドルが右に取られ、セダンはさらに崖側へ傾く。

 火花を散らして、車体が滑り出す。


「ッ……!」


 カーブは目前。

 この状態では、どう足掻いても曲がりきれない。

 ジョージは最後の悪あがきで、ハンドブレーキを引いた。

 しかし——

 タイヤはすでにグリップを失っている。


 滑る。止まらない。

 むしろ、勢いをつけて崖へ向かって加速していく。


 「……ダメか」


 コントロールを失った白のセダンは、夜の闇へと一直線に滑り落ちていく。



 セダンが宙を舞う。

 冷たい夜が、牙を剥く。

 ジョージは息をする間もなく、車ごと暗闇に呑まれた。


 重力が消える。落ちる。

 ねじれる。沈む。


 そして、堕ちていく。


 木か岩か、何か硬いものが車体を打ち、金属が潰れる音が響く。

 ガラスが飛び散る。


 エアバッグが弾け、胸を圧迫する。

 呼吸が止まる。


 右手が反射的に動く。

 シートベルトを外す。

 左手でドアを引く。


 ――開いた。


 変形していたら、ここで終わりだった。


 車が跳ね、ジョージは空へ投げ出された。


 落ちていく。


 視界がひっくり返る。

 地面が殴りつける。

 岩が、木が、土が、冷酷に砕いていく。

 腕を折り畳む。


 頭を守れ。


 衝撃が続く。

 体が弾み、転がる。そして止まった。


 土が口の中に入り、肺が焼けるようにむせる。


 息は? 立てるか?


 顔を上げる。視界が揺れ、頭の奥で鈍い鐘が鳴る。

 どこかで燃え始めた車の光が、闇を照らす。

 敵はまだいるか?

 ここはどこだ?

 動けるか?


 ――俺はまだ生きているか?


 脳が、生存確認のチェックリストを走らせる。


 右手は動く。

 脚も問題ない。

 しかし——左肩に違和感。

 ジョージは浅い息を繰り返しながら、泥と血にまみれた右手で左腕に触れた。


 ——肩のラインが歪んでいる。

 力を入れようとすると、電撃のような痛みが走る。

 脱臼か。


 痛みがじわじわと意識を引き戻していく。


 だが、まだ足りない。

 自ら意識確認を行う。

 ジョージは僅かに開いた口から掠れた声を絞り出した。


「俺の、名前は……」


 言葉がすぐに出てこない。

 舌がもつれ、脳が靄に包まれるような感覚がする。

 だが、ここで意識を手放すわけにはいかない。

 喉が引っかかるように動き、無意識に次の言葉が漏れた。


「……ま……」


 そこまで言った瞬間、胸の奥に鈍い違和感が広がった。

 それは痛みとも、恐怖とも違う、もっと得体の知れない感覚だった。


「……いや、違う……」


 ジョージは口の中に溜まった血と泥を吐き捨て、奥歯を噛み締めた。


「ジョージ・ウガジン。28歳……」


 続けて声を出して数字を数える。

 カウントアップはうまくいった。

 しかし、カウントダウンに言葉が詰まった。

 意識が混濁している。

 痛みがそれを吹き飛ばす。


 体を動かした瞬間、左肩から電撃のような激痛が走った。


 肩が外れてる。

 ジョージは舌打ちした。

 利き腕。最悪だ。


 ジョージは背後の岩にゆっくりもたれかかり、呼吸を整える。

 右手で左腕を掴み、肘を浅く折った。


 ――いくぞ。


 躊躇はなかった。

 一気に押し込む。

 骨が戻る感触と同時に、脳の奥で爆発するような痛みが弾けた。

 呻きが漏れる。

 だが、それでいい。


 鋭い痛みは残るが、腕は動く。

 銃も撃てる。

 それで十分だ。


 上を見れば、険しい急斜面。

 這い上がらなければならない。


 羞恥や屈辱を感じる回路は、もうとっくに遮断されている。

 人間としての尊厳は、あのセダンに置いてきた。

 今ここにあるのは、泥と血と、損傷した関節。

 それでも、生きている。

 それだけで充分だ。


 ジョージは濡れた地面に手を突いた。

 土が崩れ、指にめり込む。だが止まらない。


 利き腕は動く。脚も動く。

 行動に支障なし――それだけで十分だった。


 這い上がるしかない。

 震える手で体を支え、泥を踏んで前へ進む。


 何度も滑り、肘で受け止める。

 膝が震え、片腕は痺れていたが、止まる理由はない。


 顎を引き、視線を上げる。

 闇の中、木の根が浮かんでいる。あそこまで行けばいい。


 右手を伸ばし、滑る。

 もう一度、握る。

 根を掴み、一気に体を引き上げた。


 斜面の上に這い上がったジョージは、その場に倒れ込んだ。


 肺が焼けるように熱い。

 体は悲鳴を上げていた。


 地面に両手をついたまま、ジョージはしばらく動かなかった。

 血と泥にまみれ、息は荒れ、視界も滲む。


 それでも、呼吸を整える。

 吸って――吐く。ゆっくりと。

 肺の奥に残った焦りと痛みを、吐息とともに押し出す。


 ここで乱れれば、次はない。

 整えるのは、心ではなく“形”だ。

 それが的居の男にとっての、最低限の“礼”だった。


 ジョージは朦朧とした意識のまま、夜空を見上げた。

 霞む視界の先に、ただ星だけがあった。

 彼は小さく、低く、掠れた声で呟いた。


 「……まだ、生きる」





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