1ヶ月前。ΩRM。
午後の光が、レンガ壁のオフィスに射していた。
かつて倉庫だった建物を改装した本部。
天井は高い。
壁にはホワイトボード。
色分けされたスケジュールマグネットが整然と並ぶ。
副社長のチャールズ・フィンリー、通称“チャット”が電話を掛けている。
丁寧な調子で「Yes, ma'am」と締めくくる。
声の端には、どこか演技じみた礼儀があった。
カチ、と受話器を戻す音が響く。
ホワイトボードを一瞥したあと、チャットは身体をくるりと回した。
視線の先――
ソファ席。ジョージ・ウガジンが、ヨーグルトを淡々と口に運んでいた。
スプーンの動きに無駄はない。音すら立てない。
妙に機械的だったが、それがいつもの彼だった。
チャットは片口を上げて笑い、メモ用紙を一枚もぎ取る。
ボールペンが走り、数行を書きつける。
それを折ってジョージに投げた。
「明日の仕事、決まったぞ。
おめでとう、ミスター・休暇中」
ジョージは顔を上げない。
咀嚼を終え、喉を鳴らしてようやく一言。
「……休暇のはずだが」
チャットは指をくるくる回しながら、芝居がかった動作で続けた。
「“だった”。過去形な、ミスター・休暇中。
つーか、そもそもなんでオフなのに会社に来てんだよ――まあいい。
今回のは“休暇っぽい任務”ってことで、法的にも精神衛生的にもギリギリセーフ。
ていうかさ――もう俺ら、学んだじゃん?」
視線だけで、ヴィンセントを指し示す。
チャットの語りが続く。
「ジョージにガチの休暇くれてやると、だいたい数日後には“退屈”って理由でチンピラ狩り始めて、
警察に“今後この地区には近づかないでください”って書類叩きつけられるんだよ」
ヴィンセントが無言で頭を抱えた。
そのリアクションに、チャットは勢いを増す。
「で、迎えに行ったヴィンちゃんが“うちの子がすみませんでした”って深夜の警察署で謝罪。
しかも本人は“あれは
警報器よりヴィンちゃんの怒声がデカいとか、もう社内で予測済みだからな。
未来視かよ」
チャットの両手が宙を泳ぐ。
ヴィンセントは腕を組んだまま、わずかに肩をすくめて返す。
「チャットの言い方はアレだが、内容には一理ある。
生活リズムの調整も兼ねて、少し“普通の空気”に触れてこい。
……戦場じゃなく、生活の中に身を置く任務ってのも、たまには必要だ。
まあ、バカンスとは言えねぇが……久々に穏やかな案件だ。たぶん」
“たぶん”の一言に、ジョージの眉がわずかに動いた。
手元のスプーンを咥えたまま、膝の上のメモを開く。
民間女性からの個人依頼。
娘ふたりと同居。
セキュリティ診断&常駐警護。
初回面談含む。
「……場所は?」
くぐもった声で聞いた。
「ジャージー近郊。郊外の一軒家。
依頼者は……グレナンさん、だったかな。
シングルマザー。強引な客じゃない。フィーリングは悪くなかった。
むしろ、お前と同じで警戒心の塊だったよ」
チャットはメモを指差して続ける。
「だから今回は、“やや働きながら休める”っていう新しいジョージ対策。
地雷も銃弾も飛ばねぇ、家庭のぬくもりで包まれた警護案件。
毎日2食、野菜と愛情入りの手料理つきだぞ?
偏食系プロフェッショナルに優しい設計。神かよ」
ジョージはスプーンを置いた。
空になったヨーグルトのカップを、無造作にゴミ箱へ投げる。
再びメモに目を落とす。
「……常駐か?」
「ああ。まずは1週間の仮契約。延長の可能性あり。
要件はセキュリティ強化と“存在による抑止”。つまり――」
「俺が、家にいること自体が任務ってわけか」
「その通り!
服はカジュアルで。殺し屋感NG。
“近所の犬を撫でてそうな男”って雰囲気で頼む。犬耳は要らんけどな」
「犬は吠えるが、俺は黙ってる」
「それで十分さ――
ただし、“ジョン・ウィック”にならないでくれよ?
あれ、犬撫でてたけど最終的に世界中に指名手配されたからな」
ジョージが微かに首を傾げた。
「……あいつ、銃とスーツしか着てないだろ」
「だからだよ!
今回は“ジャージ姿で鉢植えに水やってる近所のお兄さん”で頼むわ。
せめて、人間と挨拶できる雰囲気を出してくれ。
“ジョン・
チャットがウィンクしてみせる。
ジョージはちらりとだけ視線を向け、反応は返さなかった。
「明日朝出発。
プロフィール、今夜中にインストールしとけ。
クライアント、たぶん“あらやだ、この子、小さくてかわいいわ。未成年かしら?”って顔するから」
チャットは一人芝居を始めた。
声を高く、胸に手を当てながら、上品ぶって口調を真似る。
「“あらやだ、この子が元・軍人?
え、そういう訓練も受けてたって……本当?”
で、次の瞬間、
“ちょっと待ってこの人、ガチでプロ中のプロじゃない……?”
ってなる。可愛いのに怖い。最高でしょ?」
ヴィンセントが喉の奥で笑いながら口を挟む。
「悪い意味じゃない。むしろそっちのが信頼される。
時間をかけて、少しずつ馴染めばいい。……お前は、そういうタイプだろ」
ジョージは小さく頷いた。
手帳を開きながら、ぽつりと呟く。
「……家庭料理か」
チャットが即座に反応する。
「そこ!?
いやでも、正直そこが一番効くんだろ、お前には」