インターホンを押すと、控えめなチャイム音が返った。
小ぢんまりとした家。
だが庭はよく手入れされ、玄関脇には季節の花が飾られている。
「どなた?」
スピーカー越しの女性の声。穏やかだが、警戒の色があった。
「ΩRMのジョージ・ウガジンです。
護衛の件で、お約束いただいています」
依頼人の名前はナンシー・グレナン。
書類上は“ストーカー被害”だったが、記載された内容には不審者の出没、娘の持ち物への損壊、動物の死骸――
単なる嫌がらせでは済まない空気があった。
数秒後、玄関のドアが開く。
空気が変わった。温度じゃない、質の問題だ。
女が立っていた。明るすぎる場所から来たような顔で。
きっと、そういう場所で生きてきたんだろう。
金髪は高い位置で束ねられ、ゆるく揺れていた。
彼女は朝の陽差しのように、無防備だった。
まるで、誰にも脅かされたことがないかのように。
だが、侮れない。あの目を見ればわかる。
青い目だった。曇りがない。
顔のつくりは整っていた。
頬骨、鼻筋、眉の弓――
一つひとつが精密に彫られていて、それでいて、笑う準備だけはいつもできている。
それがまた、ひどく自然だった。
一見、無防備。だが違う。
あの目の奥には、まだ壊れていない何かがある。
あるいは、壊れても、それを元に戻せる場所を知っている女だ。
ジョージには、その“戻し方”がわからなかった。
(……なるほど、ジムの経営者、か)
「ようこそ。どうぞ入って」
靴の泥を落とし、室内に足を踏み入れる。
ラベンダーの香り。小さな生花が食卓に。
部屋の一角には、子供向けのカラフルな玩具。
「コーヒー? 紅茶?」
「コーヒーで」
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで」
カップを受け取る。
一口だけ飲み、名刺を渡した。
「ジョージ・ウガジン、ね。
……ごめんなさい、ファーストネームで呼んでいいかしら?」
「構いません」
「私はナンシー・グレナン」
握手。肌は冷たくなかった。
「東洋系の顔立ちと……その苗字、ちょっと珍しいわね。どんなルーツなの?」
「日本です」
「日本!」
ナンシーの頬に、ほんのりと赤みが差した。
数ある写真の中からひとつを手に取る。
「夫と、新婚旅行で行ったのよ」
映っていたのは若い頃の彼女と夫。
寄り添って笑う2人の背後には、断崖を流れ落ちる滝――
透明な水、深い緑、岩壁、陽に透ける葉。
「
「えっ、そうなの! よくわかったわね」
「……子供の頃、少しあの辺りに住んでました」
自分でも意外なほど、声がなめらかに出た。
言ってから、ジョージは目を伏せる。
ナンシーはしばらく写真を見つめていた。
そして、ぽつりと。
「トムが、引き合わせてくれたのかしら」
「旦那さんは……」
「3年前に亡くなったの」
口調はあっさりしていたが、目の奥には沈んだ色。
「下の子が1歳になる少し前。
警官だったの。薬物中毒者に……撃たれて」
ジョージの肺が、一瞬だけ止まった。
――兄を失ったときの、あの冷たい空白を思い出す。
「……ごめんなさいね。しんみりしちゃったわ。仕事の話をしましょう」
ナンシーは写真を伏せ、顔つきを引き締める。
「ストーカーの被害を受けているの。
娘たち――リリーとジェシカの送り迎えを含めて、私たち家族の警護をお願いしたい」
声に、疲れと焦りが混ざっていた。
「最初は郵便ポストや車が壊された程度だったの。
でも、夜中に誰かが家の外に立っていたこともあって……」
ジョージは黙ったまま、わずかに頷く。
「防犯カメラを設置したけど、壊されたわ。
ある日、ジムのドアの前に、鳥の死骸が置かれてた。……首を切られていたの」
声が硬くなり、指先がわずかに震えた。
「それでも、何とか我慢してたの。
でも……次は娘たちに影響が出た」
ナンシーは小さく息を呑み、続ける。
「リリーのバッグに刃物で切り込みが入れられてて……
玄関には、こう書かれたメモが貼られてたの」
“次はもっと面白いものを見せてやる”
ジョージは、言葉を待たなかった。
状況はすでに“嫌がらせ”の域を超えていた。
「何か、心当たりは」
「……あるかもしれない」
ナンシーは封筒を差し出した。
ジョージは中身を取り出す。
――裁判所の召喚状。
証言者の名前、事件番号、薬物事件。
法廷での証言義務。しなければ罰則。
逃げ場はない。
「……麻薬取引の現場を見てしまったの。
証言台に立った。それから、これが始まったの」
ジョージは召喚状をスマホで撮り、ヴィンセントに送信する。
必要なのは、現場への判断材料だけだ。
「これは、報復なの……?」
ジョージは首を横に振る。
「断定はできません。
だが、誰が相手でも私のやることは同じです」
ナンシーの目を見据え、静かに言葉を置く。
「証言は、勇気ある行動です。
あなたの選択は、正しかった」
そのひとことで、彼女の肩の力が少し抜けた。
「ありがとう」
「……グレナンさん」
「ナンシーでいいわ」
「……ナンシー。娘さんたちには、話していますか?」
返ってきたのは沈黙だった。
「知らない男が家に住む。抵抗があって当然です。
まずは彼女たちと話を」
「……分かったわ」
ナンシーは小さく頷いた。
「ありがとう、ジョージ」
ジョージは立ち上がり、部屋の構造を目で追う。
「防犯の確認を始めます。
高価な機材がなくても、工夫で補えます」
ナンシーの表情に、わずかな安堵が浮かぶ。
「……ええ、お願い」
ジョージは一歩、玄関に向けて歩き出す。
「できることから、始めましょう」