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002:ご依頼内容→シングルマザー+娘2人+ちょっと不穏なメモ

 インターホンを押すと、控えめなチャイム音が返った。

 小ぢんまりとした家。

 だが庭はよく手入れされ、玄関脇には季節の花が飾られている。


「どなた?」


 スピーカー越しの女性の声。穏やかだが、警戒の色があった。


「ΩRMのジョージ・ウガジンです。

 護衛の件で、お約束いただいています」


 依頼人の名前はナンシー・グレナン。

 書類上は“ストーカー被害”だったが、記載された内容には不審者の出没、娘の持ち物への損壊、動物の死骸――

 単なる嫌がらせでは済まない空気があった。


 数秒後、玄関のドアが開く。


 空気が変わった。温度じゃない、質の問題だ。

 女が立っていた。明るすぎる場所から来たような顔で。


 きっと、そういう場所で生きてきたんだろう。

 金髪は高い位置で束ねられ、ゆるく揺れていた。


 彼女は朝の陽差しのように、無防備だった。

 まるで、誰にも脅かされたことがないかのように。


 だが、侮れない。あの目を見ればわかる。

 青い目だった。曇りがない。


 顔のつくりは整っていた。

 頬骨、鼻筋、眉の弓――

 一つひとつが精密に彫られていて、それでいて、笑う準備だけはいつもできている。

 それがまた、ひどく自然だった。


 一見、無防備。だが違う。

 あの目の奥には、まだ壊れていない何かがある。

 あるいは、壊れても、それを元に戻せる場所を知っている女だ。


 ジョージには、その“戻し方”がわからなかった。


(……なるほど、ジムの経営者、か)


「ようこそ。どうぞ入って」


 靴の泥を落とし、室内に足を踏み入れる。

 ラベンダーの香り。小さな生花が食卓に。

 部屋の一角には、子供向けのカラフルな玩具。


「コーヒー? 紅茶?」

「コーヒーで」

「砂糖とミルクは?」

「ブラックで」


 カップを受け取る。

 一口だけ飲み、名刺を渡した。


「ジョージ・ウガジン、ね。

 ……ごめんなさい、ファーストネームで呼んでいいかしら?」

「構いません」

「私はナンシー・グレナン」


 握手。肌は冷たくなかった。


「東洋系の顔立ちと……その苗字、ちょっと珍しいわね。どんなルーツなの?」

「日本です」

「日本!」


 ナンシーの頬に、ほんのりと赤みが差した。

 数ある写真の中からひとつを手に取る。


「夫と、新婚旅行で行ったのよ」


 映っていたのは若い頃の彼女と夫。

 寄り添って笑う2人の背後には、断崖を流れ落ちる滝――

 透明な水、深い緑、岩壁、陽に透ける葉。


高千穂峡たかちほきょうですね」

「えっ、そうなの! よくわかったわね」

「……子供の頃、少しあの辺りに住んでました」


 自分でも意外なほど、声がなめらかに出た。

 言ってから、ジョージは目を伏せる。


 ナンシーはしばらく写真を見つめていた。

 そして、ぽつりと。


「トムが、引き合わせてくれたのかしら」

「旦那さんは……」

「3年前に亡くなったの」


 口調はあっさりしていたが、目の奥には沈んだ色。


「下の子が1歳になる少し前。

 警官だったの。薬物中毒者に……撃たれて」


 ジョージの肺が、一瞬だけ止まった。

 ――兄を失ったときの、あの冷たい空白を思い出す。


「……ごめんなさいね。しんみりしちゃったわ。仕事の話をしましょう」


 ナンシーは写真を伏せ、顔つきを引き締める。


「ストーカーの被害を受けているの。

 娘たち――リリーとジェシカの送り迎えを含めて、私たち家族の警護をお願いしたい」


 声に、疲れと焦りが混ざっていた。


「最初は郵便ポストや車が壊された程度だったの。

 でも、夜中に誰かが家の外に立っていたこともあって……」


 ジョージは黙ったまま、わずかに頷く。


「防犯カメラを設置したけど、壊されたわ。

 ある日、ジムのドアの前に、鳥の死骸が置かれてた。……首を切られていたの」


 声が硬くなり、指先がわずかに震えた。


「それでも、何とか我慢してたの。

 でも……次は娘たちに影響が出た」


 ナンシーは小さく息を呑み、続ける。


「リリーのバッグに刃物で切り込みが入れられてて……

 玄関には、こう書かれたメモが貼られてたの」


 “次はもっと面白いものを見せてやる”


 ジョージは、言葉を待たなかった。

 状況はすでに“嫌がらせ”の域を超えていた。


「何か、心当たりは」

「……あるかもしれない」


 ナンシーは封筒を差し出した。

 ジョージは中身を取り出す。


――裁判所の召喚状。

 証言者の名前、事件番号、薬物事件。

 法廷での証言義務。しなければ罰則。

 逃げ場はない。


「……麻薬取引の現場を見てしまったの。

 証言台に立った。それから、これが始まったの」


 ジョージは召喚状をスマホで撮り、ヴィンセントに送信する。

 必要なのは、現場への判断材料だけだ。


「これは、報復なの……?」


 ジョージは首を横に振る。


「断定はできません。

 だが、誰が相手でも私のやることは同じです」


 ナンシーの目を見据え、静かに言葉を置く。


「証言は、勇気ある行動です。

 あなたの選択は、正しかった」


 そのひとことで、彼女の肩の力が少し抜けた。


「ありがとう」


「……グレナンさん」

「ナンシーでいいわ」

「……ナンシー。娘さんたちには、話していますか?」


 返ってきたのは沈黙だった。


「知らない男が家に住む。抵抗があって当然です。

 まずは彼女たちと話を」

「……分かったわ」


 ナンシーは小さく頷いた。


「ありがとう、ジョージ」


 ジョージは立ち上がり、部屋の構造を目で追う。


「防犯の確認を始めます。

 高価な機材がなくても、工夫で補えます」


 ナンシーの表情に、わずかな安堵が浮かぶ。


「……ええ、お願い」


 ジョージは一歩、玄関に向けて歩き出す。


「できることから、始めましょう」



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