「あり得ないんだけど!」
フォークの先で、ジェシカは皿の上のグリーンピースを追いかけていた。
刺そうとすれば滑り、逃げる。繰り返すたび、失敗。
15歳の苛立ちが、無言の食器にぶつけられていた。
「なんで私たちが知らない男と一緒に住まないといけない訳? ましてや、アジア人と」
「ジェシカ! 言葉を慎みなさい!」
ナンシーの叱責は鋭かった。
だが娘はそれ以上に鋭く睨み返した。
「さっきも言ったでしょう。ジョージはあなた達に危害が加えられないように、見守ってくれるのよ」
「きがいってー?」
リリーの声が割り込んだ。無垢な4歳。意味を問うた。
「怪我しないように見守ってくれるってことよ。リリー」
ナンシーの口調は一転してやわらかくなった。年齢差が、応対の温度差を作る。
「ジェシカ」
静かにジョージが口を開いた。
声は低く、無理に沈めたわけではない。もとからその深さだった。
「こう考えてみてはどうだろう。
……しばらくの間、執事を雇ったと思ってくれればいい。
実際、執事ほど多くのことはできないが、発想としては、それほど外れてはいない。
そして――君たちはお嬢様ということになる」
「ほんとー? ジョージィー、パンケーキ作れるー?」
リリーが即座に乗った。
空気など読まない。
読まなくていい年齢だった。
「ああ。作れる」
「つくってーー!」
ナンシーが微笑んでリリーに目を向けた。
「まだお話の途中よ、リリー」
「バッカみたい!」
ジェシカが吐き捨てた。
声の奥に熱があった。理屈じゃなく、感情の爆発。
「パパがいたら、こんなことにはならなかった!
それに、もっとマシな人を選べたでしょう?
何このチビのアジア人。
私と身長ほとんど変わらないじゃない!」
止まらない。もう誰にも止められない。
フォークを握る手が震えていた。
「それでどうやって大きい男から私たちを守れるってわけ?
守れなかったら?」
ジョージの眉が、わずかに動いた。1ミリの反応。
「こいつを選んだのもどうせ他の人に比べてお金が安かったからでしょう? 本当にいや――」
「ジェシカ!! もう黙りなさい!!」
ナンシーの怒声が空気を裂いた。
家全体が軋んだような錯覚があった。
「やめなさい!!
これ以上、他人を侮辱することは許しません!!」
ジェシカは黙った。
それでも、睨みは消えなかった。
瞳に浮かんでいたのは、怒りよりも涙だった。
「こんなごはん、もういらない!」
椅子が軋み、皿が押し出される。
ぶつかったグラスが倒れ、水がジョージの皿に流れ込んだ。
料理は、一瞬で崩壊した。
「ジェシカ!」
ナンシーが動く前に、ジェシカは立ち去った。
数秒後、廊下の奥で扉が閉まる音が響いた。
ジェシカは自室へ入り、そのまま鍵をかけたようだった。
それが、娘の本心の蓋でもあった。
「ジョージ、ごめんなさい。あの子ったら……
あの今、料理を変えるわね」
「いえいえ、私のはこのままで大丈夫です。
それより、ジェシカのフォローをお願いします」
ジョージはわずかに視線をずらす。
テーブルの端、リリーを見ていた。
「リリーは私に任せてください」
◇
時間が少しだけ経った。
ナンシーが戻ってきたとき、その顔は明らかに疲れていた。
リリーの鼻は赤かった。泣いた跡。
この子は泣くときも静かだった。
だから余計に、泣き声がないほうが痛い。
今は、笑っていた。
ジョージに向ける表情は、安心のそれだった。
テーブルを見ると、ジョージの皿は空になっていた。
ナンシーは無意識にその顔を見る。
「おいしい夕食でした。
私の分まで用意してくれて、ありがとうございました」
「ごめんなさい……ジェシカが台無しにしてしまって」
「気にしないでください。ほぼ食べ終わっていましたから。
それより、ジェシカは……」
ナンシーは話題を変えようとしたが、逆に返された。
苦笑して、うつむく。
「部屋に閉じこもってしまったわ。
何も話してくれない」
言いながら、ジェシカは額に手をやり、そして顔を上げる。
「あの、ごめんなさい。
あの子、あなたにあんな酷い事を言って……」
ジョージは静かに首を横に振った。
「気にしないでください。
私がアジア人なのも、小柄なのも事実です。
それに私は、このような状況に慣れています」
◇
ジェシカはベッドに顔を伏せていた。
枕を抱き、声を上げずに泣いていた。
リビングの声が遠く聞こえる。
母の声。ジョージの声。
どちらも落ち着いていた。
それがまた、怒鳴り返してこない分、苦しかった。
――どうせ、全部口先だけ。
ジェシカはスマホを開いた。
写真アプリの“お気に入り”をスクロール。指が止まる。
制服姿の男性。
優しそうに笑っていた。
涙が滲む。視界が歪む。
それでも拭わなかった。落ちるにまかせた。
「パパ……パパ……なんで死んじゃったの……寂しいよ……」