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004:深夜、知らない男がキッチンに立っている。


 リビングは闇に沈んでいた。

 唯一、ジョージの手元だけが照らされている。卓上の小さな作業灯。

 その灯りが、工具と電子部品に静かな輪郭を与えていた。


 床に正座し、拡大鏡越しにマザーボードの基板を追っている。

 指先はほとんど音を立てずに動く。

 半田の焼けた匂いが、わずかに空気を焦がしていた。


 気配。振り返らなくてもわかる。

 素足の足音が、ためらいがちに床板を鳴らしていた。


「……お腹、空いただろ」


 声は低く抑えた。だが、確実に聞こえるトーンで。

 ジョージは立ち上がると、ランプのスイッチを切った。暗闇が戻る。

 代わりに、ダイニングの明かりを点けた。


「夕食の残り。君の母親が冷蔵庫に入れてた」


「じゃあ、ジョージが用意してよ。執事なんでしょ?」


 15歳の少女が言う。足を組んで、目を逸らさずに座る。

 牽制にも似た視線。試されている。


 ジョージは冷蔵庫を開けた。

 プラスチックラップに包まれた皿。水のボトル。

 無言のまま電子レンジに皿を入れ、ボタンを押す。

 モーター音が部屋の沈黙を押しのける。


 食器棚の中から、先ほど見た洒落たグラスを取り出す。

 手の感触で探り、水を注ぐ。

 カトラリーの場所は分からない。


「フォークはそこ。プレースマットも一緒にあるわ」


 ジェシカが指をさした。

 ジョージは手順通りに並べた。

 マット、フォーク、グラス。配置は左右対称。

 習慣のような動き。


 レンジが電子音を鳴らす。

 ジョージはラップをゆっくりと剥がし、皿を少女の前に置いた。


「……ボナペティ、お嬢様」


 軽く頭を下げる。礼儀は形式的でいい。内容が大事だ。


「なにそれ?」


「フランス語で“召し上がれ”だ」


「……気取ってるし」


 少女は無言でフォークを取る。

 最初の一口までに、わずかな間があった。

 噛むたびに、テーブルに小さな音が跳ねた。


「伝えておきたいことがある」


 ジョージが口を開いた瞬間、ジェシカの指が止まる。


「なに?」


「セキュリティの件だ。言いそびれていた」


 勝手口に向かう。

 壁際、目立たない角度に設置されたレンズ付きのデバイスの前で手を振る。

 直後、ポケットのスマホが不快なピアノ音を鳴らした。

 調律されていない音。

 わざと選んだ通知音だ。


「モーションセンサー付きのカメラを設置した。

 映った対象が4人以外だった場合、俺の端末に即時通知される」


 画面を見せる。

 そこには、数秒遅れで現実を再生する映像。

 無人の勝手口が映っていた。

 数秒後に停止。


「他にも数か所、外周に設置済み。

 屋内の死角にも追加予定だ」


 必要な情報だけを端的に伝える。

 ジェシカは返事をしない。ただ黙々と食べ続ける。


 食事が終わると、皿を端に寄せた。

 ジョージはそれを取り、無言で流しへ。

 水音と陶器の触れ合う音が、静かに響いた。


「ゲストルーム、使わないの?」


 少女が言う。棘を隠しきれていない声。


「緊急対応が遅れる。リビングで待機する方が効率的だ」


「……そういう意味じゃなくてさ……」


 苛立ちが混じる。

 ジョージは布巾で手を拭く。

 ぴしりと折られた白い布が、彼の手の中できちんと畳まれていく。


「明日からはガレージにいる。

 仮眠以外は、だ。

 今日はまだ防御網に穴があるから、ここにいるだけだ」


 少女が言葉を飲み込んだのがわかった。

 反論を形にしようとして、やめた。

 しばらくの間。


「……SNS、やってるか?」


「えっ……うん」


 流れを読めていない。

 視線が彷徨う。

 ジョージは間を与えない。


「もし可能なら、アカウントを教えてくれ。相互フォローでいい。

 投稿の内容から、外部へのリスクを予測したい。干渉はしない。保証する」


「は? なんでそんなことしなきゃいけないの?」


 声が跳ねた。拒絶反応。正常な範囲内。


「選択は君に任せる。断っても構わない。強制は一切ない。

 ただ、フォローしてくれたら、何かが起きた時、こちらの対応が早くなる。

 君の母親にも内容は一切伝えない。契約終了時には、全てのデータも破棄する」


 ジョージの声音は一定。

 目を逸らさずに座り直し、真正面から向き合った。


「ボディーガードの使命は、“生命ライフ”だけじゃない。“生活ライフスタイル”も守る。それが仕事だ

 これは命令じゃない。個人的な願いだ。どちらを選んでも、依頼料は変わらない」


 ジェシカはスマホを握ったまま、少しの間考えていた。

 ビビッドピンクのケースが手の中で目立っていた。

 が、思考の末に、首を振る。


「……プライバシー侵害でしょ。絶対ムリ。気持ち悪いし」


 そう吐き捨てて、踵を返す。

 背中に向かって声をかける。


「……おやすみ」


 返事はなかった。


 背後。ジョージは気づいていた。

 ナンシーが、廊下の影にいた。

 だが、何も言わなかった。



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