ナンシーは眠れずにいた。
――自分の判断は果たして正しかったのかどうか?
ΩRMのチャールズ・フィンリーという男の言葉を思い出していた。
「ミセス・グレナン。これは私の勘ですが――」
フィンリーの声は穏やかだった。
だが、その下に研がれた刃のような静けさがある。
「この“勘”ってやつ、昔はポーカーと逃げ道のない交渉でしか使わなかったんですが……今は、人の命に使うようになりましてね」
わずかに皮肉が滲む。
それでも声色は崩れず、プロの顔を保っていた。
「今回のケース。女性エージェントをご希望とのことでしたが……
私の率直な意見としては、男性の方が適任です。
もちろん、ご不安は理解しています。
自宅に男を入れるのは、なにより警戒すべきことです。
でも――この状況で安心と対処力を両立できる人間は、数が限られている」
ナンシーが黙っていると、フィンリーはふっと笑いを混ぜた声で言った。
「無理にお選びいただくつもりはありません。
うちは強引に押すのが商売じゃない。
ただ……そうですね。
他社が百貨店なら、うちは“裏路地にある本物の店”みたいなものでして。
看板は小さいが、ナイフは研いである」
一呼吸置き、トーンをさらに低くする。
「もし私の提案を受けていただけるなら――
基本料金は誠実に調整します。
追加料金も、極力抑える方向で動きます。
そして。私が最も信頼している、我々のエースを派遣いたします。
彼は、言葉よりも先に動く男です。
ご家族を守るという一点において、ブレることはありません」
まるで劇中の一幕のような、静かで張り詰めた間。
それすら計算に入れているような、説得のトーンだった。
そして今日、ナンシーは扉の向こうに立つ男を見て、一瞬、言葉を失った。
思っていたより、小柄で若かった。
それが率直な感想だった。
もっと大柄で、威圧感のある男を想像していた。
いかにも“ボディーガード”らしい、壁のような体格の持ち主を。
だが、現れた男は違った。
背は低く、体格も控えめ。
鍛えられた体は服越しにも分かるが、強さを見せびらかす雰囲気はない。
通りすぎてしまいそうな、静かな存在感。
ほんの少し、落胆が胸をよぎる。
(この人に、家族を任せていいのだろうか……)
黒髪はわずかに癖があり、額に影を落としている。
目鼻立ちは整っている。
輪郭も骨格も、端正な顔立ちの部類に入る。
けれど、何かが違った。
図面通りに完成したはずのその顔には、どうしても“にじみ”がある。
まるで、精密に引かれた設計図に、あとからインクをこぼしたような――そんな違和感。
失った何か。背負った何か。
本人すらもう形を忘れかけたそれらが、表情の奥で干からび、貼りついている。
壊されて、貼り合わせて、また裂けて――
そうしてようやく今、かろうじて“ひとりの人間”として立っている。そんな顔だった。
そして、その男がこちらを向いた。
無表情で、まばたきの少ない目。
若く見えたはずなのに、年齢が読めない。
体は未完成に見えるのに、目だけがやけに冷たくて、よく訓練された獣のようだった。
黒い瞳だった。
吸い込まれるような深さはない。
ただ、何も映さず、何も拒まない。
感情の揺らぎは見えないのに、不思議と目を逸らしたくなる。
見透かされたような気がして、けれど、それが何を意味しているのか分からない。
一言でいえば――得体が知れなかった。
そもそも、男性でよかったのだろうか?
母親と娘2人の家に、見ず知らずの男を入れて、本当に大丈夫なのか。
料金の安さにつられて決めたけれど、それが娘たちを危険に晒すことにならないか――
矛盾した感情がぶつかり合う。
その時、廊下の向こうからジェシカの足音が聞こえた。
ナンシーは思わず身を起こし、ドアを少しだけ開けて、リビングの様子をうかがう。
ジェシカは相変わらず生意気な口をきいていた。
それに対し、ジョージは、いちいちムキになることなく、軽くいなすように応じている。
流すのではなく、軽やかに受け止め、適度なユーモアを交えながら。
ナンシーはそっと息を吐いた。
ジェシカにはまだ説明しそびれていた、家のセキュリティのこと。
そして、SNSの管理についても。
ジョージはすでにナンシーとアカウントを相互フォローしているが、彼女の投稿のほとんどはジム関連のものばかりだ。
耳を澄ませると、リビングの空気がわずかに張り詰めるのがわかった。
ジェシカが何か反発したのだろう。
次の瞬間、ジョージの静かな声が響いた。
「ボディーガードの使命は、生命だけじゃない。生活も守る」
その言葉を聞いた瞬間、ナンシーの中で、張り詰めていたものがふっと緩んだ。
――この人なら、大丈夫かもしれない。
確信とまではいかない。
だが、漠然とした不安の隙間に、小さな安心感がそっと入り込んでくるのを感じた。
ジェシカが不機嫌そうに部屋へ戻っていく。
謝らなきゃ。そう思いながらも、ナンシーは一瞬ためらった。
そして、そっとドアを開ける。
ダイニングを覗くと、ジョージが背を向け、椅子から立ち上がろうとしていた。
その背中は、夜の闇のように静かで冷たい影を落としていた。
暗さのせいかもしれない。
でも、どこか近寄りがたかった。
まるで日本のサムライのようだった。
背筋がまっすぐに伸び、どこか張り詰めた空気を纏っている。
戦場に立つ者の、静かで揺るがぬ覚悟がそこにあった。
ナンシーは迷った。
声をかけようとして。
だが、喉が詰まるような感覚に襲われた。
結局、言葉にならないまま、そっとドアを閉じた。