目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

006:ユニコーンの足音

 リビングとダイニングに、再び闇が落ちた。

 沈黙が床を這い、壁に染み込む。


 ジョージは息をひとつ吐き、視線だけで周囲を掃く。

 警戒の糸は切らず、ソファへ体を預けた。


 掌の中には、擦り減ったジッポ。

 深く刻まれた傷。曇った金属の肌。

 それは道具である前に、証だった。

 使い込まれ、酷使された――持ち主の人生と同じだ。


 蓋を開ける。

 チンと軽い音が鳴り、オイルの匂いが立った。

 記憶の蓋も、わずかに開く。


 あの頃の断片が火の中に浮かぶ。

 まだ世界に温度があった時代。

 無垢さと、壊れる前の家族。

 だが、その像が結ぶ前に、ジョージは蓋を閉じた。


 カチャン。


 硬質な音が静寂を裂く。


 無意識に胸ポケットを探った。

 タバコは――ない。

 舌打ちとともに、現実に戻る。


 腰に貼ったニコチンパッチを剥がし、新しいものに替えた。

 皮膚の上でひやりとした。

 深く息を吐き、天井を睨む。


 眠気が足元から這い上がってきた。

 だが、任務中に眠るわけにはいかない。

 ならせめて、1時間だけ。それで十分だ。


 ジョージはホルスターに手を伸ばした。

 HK P30SKのグリップに指が触れる。冷たく、硬い。

 それだけで脳が引き締まる。


 腰を沈め直し、肘を肘掛けに預ける。

 だが全身の筋肉は、どこか一点に張りを残したまま。

 眠る姿勢ではない。構える姿勢だ。


 ジッポを弄る指だけが、静かに動く。

 親指の関節で蓋を弾き、閉じる。


 カチ、カチ。


 微かな金属音が、夜を叩いた。

 靴は脱がない。

 両足はしっかり床に着けてある。

 どこかで銃声がしたなら、1秒以内に動けるように。


 まぶたを落とす。

 だが、聴覚は眠らない。


 壁時計の針が刻む音。

 冷蔵庫のコンプレッサーの鼓動。

 外の車のエンジン。遠ざかるタイヤのノイズ。

 家が軋む音。

 すべてを分類し、脅威の有無を判断する。


 ――異常なし。

 今のところは。


 ジョージは、浅い眠りに落ちた。



 ――気配。


 目を開けた瞬間には、心拍が跳ねていた。

 躰の芯が戦闘態勢に切り替わる。


 音はない。だが、確かに“動き”を感じた。

 後腰の銃に神経を集中させる。

 次の動作に入るタイミングを待つ。


 ……だが、一拍。

 その必要はなかった。


「ジョージィー」


 数秒後、未熟な声が闇を泳いできた。

 ユニコーン柄のパジャマ。擦れた声。

 幼い少女――リリーが、目をこすりながら現れた。


 反対の手には、同じユニコーンのぬいぐるみ。

 引きずるように持っている。


「どうした」


 ジョージは膝を折り、リリーと視線を合わせた。

 声のトーンを落とす。


「おしっこー」


「ママは?」


「やだー、ジョージィーがいいー」


 一瞬、わずかに戸惑う。

 だが次の瞬間には頷き、リリーの手を取った。


 小さな掌。意外なほど温かい。

 それが、どこか遠い記憶を刺激する。


 バスルームまでの廊下を、ゆっくり歩く。


「ひとりでできるか?」

「うん」

「自分のおしりも?」

「できるー。まっててー」


 バスルーム前で振り返り、リリーはそう言った。

 ジョージは軽く頷く。


「ドアのそばにいる。安心しろ」


 リリーは笑って入っていった。

 ジョージは壁際に立ち、視線を滑らせる。


 ――彼女の部屋は、バスルームの真向かいだ。

 それなのに、わざわざリビングまで来た。

 理由は考えるまでもない。


 しばらくして、リリーが顔を出した。


「おわったー」


 ジョージは軽く頷いた。


「おやすみ」

「おやすみー」


 ふらふらと歩いて、自分の部屋に消えていった。


 息をつく。

 腕時計に目を落とす。


 ――眠りについたのは、約40分前。

 実質、35分ほどの仮眠。


 その瞬間だった。


 空気が、わずかに変わった。


 何かが違う。何かが、入り込んだ。


 警告が、脳の奥で赤く点滅する。

 背骨を這い上がる冷たいもの――それが、眠気を焼き払った。


 ジョージは、呼吸を止めた。


 ……外か?

 それとも、もう中か?

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?