リビングとダイニングに、再び闇が落ちた。
沈黙が床を這い、壁に染み込む。
ジョージは息をひとつ吐き、視線だけで周囲を掃く。
警戒の糸は切らず、ソファへ体を預けた。
掌の中には、擦り減ったジッポ。
深く刻まれた傷。曇った金属の肌。
それは道具である前に、証だった。
使い込まれ、酷使された――持ち主の人生と同じだ。
蓋を開ける。
チンと軽い音が鳴り、オイルの匂いが立った。
記憶の蓋も、わずかに開く。
あの頃の断片が火の中に浮かぶ。
まだ世界に温度があった時代。
無垢さと、壊れる前の家族。
だが、その像が結ぶ前に、ジョージは蓋を閉じた。
カチャン。
硬質な音が静寂を裂く。
無意識に胸ポケットを探った。
タバコは――ない。
舌打ちとともに、現実に戻る。
腰に貼ったニコチンパッチを剥がし、新しいものに替えた。
皮膚の上でひやりとした。
深く息を吐き、天井を睨む。
眠気が足元から這い上がってきた。
だが、任務中に眠るわけにはいかない。
ならせめて、1時間だけ。それで十分だ。
ジョージはホルスターに手を伸ばした。
HK P30SKのグリップに指が触れる。冷たく、硬い。
それだけで脳が引き締まる。
腰を沈め直し、肘を肘掛けに預ける。
だが全身の筋肉は、どこか一点に張りを残したまま。
眠る姿勢ではない。構える姿勢だ。
ジッポを弄る指だけが、静かに動く。
親指の関節で蓋を弾き、閉じる。
カチ、カチ。
微かな金属音が、夜を叩いた。
靴は脱がない。
両足はしっかり床に着けてある。
どこかで銃声がしたなら、1秒以内に動けるように。
まぶたを落とす。
だが、聴覚は眠らない。
壁時計の針が刻む音。
冷蔵庫のコンプレッサーの鼓動。
外の車のエンジン。遠ざかるタイヤのノイズ。
家が軋む音。
すべてを分類し、脅威の有無を判断する。
――異常なし。
今のところは。
ジョージは、浅い眠りに落ちた。
◇
――気配。
目を開けた瞬間には、心拍が跳ねていた。
躰の芯が戦闘態勢に切り替わる。
音はない。だが、確かに“動き”を感じた。
後腰の銃に神経を集中させる。
次の動作に入るタイミングを待つ。
……だが、一拍。
その必要はなかった。
「ジョージィー」
数秒後、未熟な声が闇を泳いできた。
ユニコーン柄のパジャマ。擦れた声。
幼い少女――リリーが、目をこすりながら現れた。
反対の手には、同じユニコーンのぬいぐるみ。
引きずるように持っている。
「どうした」
ジョージは膝を折り、リリーと視線を合わせた。
声のトーンを落とす。
「おしっこー」
「ママは?」
「やだー、ジョージィーがいいー」
一瞬、わずかに戸惑う。
だが次の瞬間には頷き、リリーの手を取った。
小さな掌。意外なほど温かい。
それが、どこか遠い記憶を刺激する。
バスルームまでの廊下を、ゆっくり歩く。
「ひとりでできるか?」
「うん」
「自分のおしりも?」
「できるー。まっててー」
バスルーム前で振り返り、リリーはそう言った。
ジョージは軽く頷く。
「ドアのそばにいる。安心しろ」
リリーは笑って入っていった。
ジョージは壁際に立ち、視線を滑らせる。
――彼女の部屋は、バスルームの真向かいだ。
それなのに、わざわざリビングまで来た。
理由は考えるまでもない。
しばらくして、リリーが顔を出した。
「おわったー」
ジョージは軽く頷いた。
「おやすみ」
「おやすみー」
ふらふらと歩いて、自分の部屋に消えていった。
息をつく。
腕時計に目を落とす。
――眠りについたのは、約40分前。
実質、35分ほどの仮眠。
その瞬間だった。
空気が、わずかに変わった。
何かが違う。何かが、入り込んだ。
警告が、脳の奥で赤く点滅する。
背骨を這い上がる冷たいもの――それが、眠気を焼き払った。
ジョージは、呼吸を止めた。
……外か?
それとも、もう中か?