空気が変わった。
微細な違和感。音も匂いもない。
だが、確かに何かが侵入した。
ジョージの神経が一点に絞られる。
脳より先に、体が反応していた。
胸元からタクティカルナイフを抜く。
鋼の冷たさが手の内に収まる。
靴音を殺し、勝手口の影へと滑り込む。
骨と筋で吸収する動き。狩りの獣と同じリズム。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。
不協和音の通知音が、鳴る寸前で指が押さえつける。
沈黙は守られた。
ジョージは勝手口を開け、外に出た。
次の瞬間、男の背後を取り、右腕を首に回す。
肘で頸動脈を圧迫。
同時に重心を崩して、体を固定する。
「動くな」
声は低く、濁りのない命令だった。
男の呼吸が止まる。肩が痙攣している。
体温が抜け落ち、皮膚がじっとり濡れている。
瞳孔が開ききっていた。
焦点は合わず、何かを探して泳いでいる。
脳が“現実の世界”を処理できていない。
ジョージは刃を逆手に持ち直し、静かに首筋へ押し当てた。
力は要らない。
鋼の刃が、汗と震えをすくい取る。
その反射の中に、男の顔が映っていた。
肌は不自然に白く、口元が痙攣していた。
歯が小刻みに鳴る。
額の汗は異常に粘つき、頬に残って流れ落ちない。
瞳の奥、恐怖よりも“渇き”があった。
何かを求めている。薬か、逃げ道か、あるいはどちらも。
ジョージは正面から相手を見ない。
刃に映る断片で判断する。
だが、男は見てしまった。
刃越しに覗いたジョージの瞳――
氷の奥で燃え残る、無感情の火。
声は静かだった。
生まれついた静けさではない。
何かを壊し、そのまま戻らなかった者の声。
「シー……」
その一言が、男の喉を凍らせた。
喚く前に、声帯が封じられた。
男の手からスプレー缶が滑り落ちる。
コツンと乾いた音が地面に響いた。
「これからする質問に答えろ」
男は瞬きを忘れていた。
開ききった瞳に、血走った線が浮かんでいる。
「さもなくば、喉に穴を開ける。
……何しに来た」
それだけだった。
声量ではなく、“意味”で脅す声。
「お、おれは……ケヴィン……頼まれたんだ、“ナンシー”って……書けって……赤で……」
舌がもつれる。呼吸が浅い。
言葉より先に、欲求不満の痙攣が出る。
フィンタニルだ。行動と視線が一致していない。脳と体が別の地図を歩いている。
「誰に頼まれた」
「ド、ドフ……みんなそう呼んでる」
「本名は」
「知らねぇ……本当だ……!」
「外見は」
「え……?」
答えが遅い。脳の処理が追いついていない。
ジョージは抑揚を殺したまま、声だけを落とす。
「ドフの顔。体格。声。何でもいい。言え」
「顔は……角ばってて……刺青が……腕に……でかい声で……
ヤクを、くれるって……だから……やった……だけなんだ……」
声が涙で濁る。
だが、反省ではない。足りないものを、まだ求めている声。
ジョージは男の喉元に刃を押し込んだ。
切らず、ただ“触れさせる”だけで充分だった。
「もう一度、この家族に何かしてみろ」
男の喉が、ごくりと鳴った。
「今度は――俺がお前を殺す」
男は何も言わず、ただ頷いた。
その頷きには、理解と降伏と絶望が同居していた。
ジョージはゆっくりと腕を解いた。
男は膝から崩れ落ち、そのまま這うように走り去った。
足音が夜に吸い込まれていく。
静寂が戻る。
ジョージはしばらくその場に立ち尽くしていた。
深く息を吐く。
肺の奥に溜まっていた“処理前の感情”を、ゆっくりと手放す。
ナイフを拭う。
血はついていない。だが、念のため。
濡れた布で刃を拭き、鞘に戻す。
空を見上げた。
雲が切れて、月が顔を出していた。
ドアの前に戻る。
手をかける前に、もう一度振り返る。
街は眠っている。誰の気配もない。
その静けさを確認してから、扉を開けた。
そのとき、ポケットのスマホが再び震えた。