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007:質問は、喉に刃を添えて

 空気が変わった。


 微細な違和感。音も匂いもない。

 だが、確かに何かが侵入した。


 ジョージの神経が一点に絞られる。

 脳より先に、体が反応していた。


 胸元からタクティカルナイフを抜く。

 鋼の冷たさが手の内に収まる。


 靴音を殺し、勝手口の影へと滑り込む。

 骨と筋で吸収する動き。狩りの獣と同じリズム。


 そのとき、ポケットのスマホが震えた。

 不協和音の通知音が、鳴る寸前で指が押さえつける。

 沈黙は守られた。


 ジョージは勝手口を開け、外に出た。

 次の瞬間、男の背後を取り、右腕を首に回す。


 肘で頸動脈を圧迫。

 同時に重心を崩して、体を固定する。


「動くな」


 声は低く、濁りのない命令だった。


 男の呼吸が止まる。肩が痙攣している。

 体温が抜け落ち、皮膚がじっとり濡れている。


 瞳孔が開ききっていた。

 焦点は合わず、何かを探して泳いでいる。

 脳が“現実の世界”を処理できていない。


 ジョージは刃を逆手に持ち直し、静かに首筋へ押し当てた。


 力は要らない。

 鋼の刃が、汗と震えをすくい取る。

 その反射の中に、男の顔が映っていた。


 肌は不自然に白く、口元が痙攣していた。

 歯が小刻みに鳴る。

 額の汗は異常に粘つき、頬に残って流れ落ちない。


 瞳の奥、恐怖よりも“渇き”があった。

 何かを求めている。薬か、逃げ道か、あるいはどちらも。



 ジョージは正面から相手を見ない。

 刃に映る断片で判断する。


 だが、男は見てしまった。

 刃越しに覗いたジョージの瞳――

 氷の奥で燃え残る、無感情の火。


 声は静かだった。

 生まれついた静けさではない。

 何かを壊し、そのまま戻らなかった者の声。


「シー……」


 その一言が、男の喉を凍らせた。

 喚く前に、声帯が封じられた。


 男の手からスプレー缶が滑り落ちる。

 コツンと乾いた音が地面に響いた。


「これからする質問に答えろ」


 男は瞬きを忘れていた。

 開ききった瞳に、血走った線が浮かんでいる。


「さもなくば、喉に穴を開ける。

 ……何しに来た」


 それだけだった。

 声量ではなく、“意味”で脅す声。


「お、おれは……ケヴィン……頼まれたんだ、“ナンシー”って……書けって……赤で……」


 舌がもつれる。呼吸が浅い。

 言葉より先に、欲求不満の痙攣が出る。

 フィンタニルだ。行動と視線が一致していない。脳と体が別の地図を歩いている。


「誰に頼まれた」

「ド、ドフ……みんなそう呼んでる」

「本名は」

「知らねぇ……本当だ……!」

「外見は」

「え……?」


 答えが遅い。脳の処理が追いついていない。

 ジョージは抑揚を殺したまま、声だけを落とす。


「ドフの顔。体格。声。何でもいい。言え」


「顔は……角ばってて……刺青が……腕に……でかい声で……

 ヤクを、くれるって……だから……やった……だけなんだ……」


 声が涙で濁る。

 だが、反省ではない。足りないものを、まだ求めている声。


 ジョージは男の喉元に刃を押し込んだ。

 切らず、ただ“触れさせる”だけで充分だった。


「もう一度、この家族に何かしてみろ」


 男の喉が、ごくりと鳴った。


「今度は――俺がお前を殺す」


 男は何も言わず、ただ頷いた。

 その頷きには、理解と降伏と絶望が同居していた。


 ジョージはゆっくりと腕を解いた。


 男は膝から崩れ落ち、そのまま這うように走り去った。

 足音が夜に吸い込まれていく。


 静寂が戻る。


 ジョージはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 深く息を吐く。

 肺の奥に溜まっていた“処理前の感情”を、ゆっくりと手放す。


 ナイフを拭う。

 血はついていない。だが、念のため。

 濡れた布で刃を拭き、鞘に戻す。


 空を見上げた。

 雲が切れて、月が顔を出していた。


 ドアの前に戻る。

 手をかける前に、もう一度振り返る。


 街は眠っている。誰の気配もない。

 その静けさを確認してから、扉を開けた。


 そのとき、ポケットのスマホが再び震えた。


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