朝食の匂いが、空間の隙間に染み込んでいた。
スクランブルエッグ。ベーコン。バターの焼けたパン。
馴染みのない香り。だが不快ではない。
「ジェシカ、リリー、急いで。
学校に遅れるわよ」
ナンシーの声がダイニングを包む。
指示に対する反応は、正反対だった。
「わかってるってば」
姉はスマホを睨みつけたまま、視線を寄越さない。
一方の妹はベーコンを頬張りながら、あくび混じりに呟く。
「ねむい……」
ジョージはソファの背にもたれたまま、会話の温度だけを感じ取っていた。
朝食は断ってある。胃が拒絶する。
だが、見ておく必要はある。
ゆっくりと身体を起こし、ダイニングへ向かった。
着席すると、リリーの顔がぱっと明るくなる。
ジェシカの眉間には、逆の皺が刻まれた。
ジョージは胸ポケットから2本のボールペンを取り出した。
1本ずつ、ナンシーとジェシカの前へ置く。
「緊急用だ。
ノック部分を5秒押すと、俺の端末に通知が飛ぶ。
書き心地は悪い。が、一応、ペンだ」
ジェシカが訝しげに転がす。
信じていないわけではない。
納得していないだけだ。
「……本当に、使えるの?」
ジョージはスマホを出し、無言で頷く。
ジェシカがノック部分を押す。
数秒後、振動とともにブザー音。
画面に、アラート。
「……すごいわ」
ナンシーが素直に感嘆し、ジェシカも渋々ながらペンを握った。
「まあ、持ってて損はないってことね」
「その通りだ」
ジョージは短く答え、マグを机に置く。
湯気は上がらない。冷めたコーヒーだった。
リリーには別のものを渡した。
フラミンゴのキーホルダー。中に小型GPSが仕込まれている。
安物だが、精度は十分だ。
「とりさん、かわいい!」
リリーは両手で握りしめた。
その反応に、ジョージは何も言わない。
ただ静かに頷くだけ。
窓の外には、朝の日差し。
犬の散歩。ジョガー。新聞配達。
平和なふりをした朝。
ジョージはそれらを視界に収めながら、鍵を手に取った。
「外を見てくる」
ナッツを数粒、口に放る。
顎を鳴らす音だけが、出発の合図だった。
ガレージまでの道は短い。
だが、観察対象は多い。
路上のタイヤ痕。通りの監視カメラ。家の影の角度。
ひとつひとつ、映像のように記憶に焼きつける。
ジョージの足音が、湿ったアスファルトに溶けた。
ガレージ前。彼の“相棒”が静かに佇んでいた。
ホンダ・リッジライン――
ジョージが選び抜いた車だった。
ピックアップトラックでありながら、過剰な主張がない。
モダン・スチール・メタリックの塗装は、光の加減で黒にも銀にも転ぶ。
市街地でも山道でも、目立たず、沈み込む。
ヘッドライトは猛禽類の眼のように鋭い。
フロントグリルは格子の盾。
重装甲ではないが、頑丈にして柔軟。
必要最小限を研ぎ澄ました機能美。
銃を持たなくても戦える者が好む車だった。
――無口で、妥協を知らない機械。
シャッターを手動で上げる。軋む音が空気を裂く。
その奥にもう一台、ナンシーの車が眠っていた。
日産・ローグ――
都会派SUVとして設計された機体。
メタリックブルーのボディは朝日に濡れて、サファイアのように光る。
スリムなLEDヘッドライトが前方を鋭く射抜き、フロントフェイスはまるで整った横顔のような整合性がある。
だが、左側面。
運転席ドアからリアフェンダーにかけて、一本の深い傷が走っていた。
塗装をえぐる斜線。意図のない動きではない。
ジョージは一瞥だけで、それが警告”として刻まれた線だと理解した。
ナンシーが見せなかった闘いの痕跡。
母としての顔の裏に、静かな脅迫が滲んでいた。
リッジラインへと戻る。
確認作業はルーチンではない。
生存の儀式だ。
タイヤの空気圧。
ホイールナットの緩み。
ホイールアーチ内の異物。
地面にしゃがみ込み、シャーシの裏を覗き込む。
不審な配線。磁器式トラッカー。液漏れの痕。
異常なし。
ドアハンドルに指を掛け、静かに電子ロックを解除。
開閉音が一切響かぬように調整された手の力。
シートに鼻を近づける。
革の匂い、微かな埃。
可燃物の臭いはない。
グローブボックス、ダッシュボード、ステアリング下。
全てチェック。想定されうるすべての罠を排除。
最後に一度、街を見渡した。
住宅の陰。電柱の影。対向車のフロント。
目立つ動きはない。が、それは“今だけ”だ。
ローグも同様に確認。
女性と子供を乗せる車。だからこそ、油断はできない。
センサー、フレーム、ワイパー周り。
殺気のない部分にこそ、罠は仕掛けられる。
ナンシーと子供たちの足音が背後から迫る。
ジョージはそれを背中で感じ取りながら、
車両のドアを静かに閉めた。
◇
リッジラインのエンジンが唸った。
低音が車体を震わせ、呼吸と同調する。
リリーはチャイルドシート。手の中でキーホルダーを転がす。
ジェシカは助手席。腕を組み、外に視線を流している。
「シートベルト」
短く促すと、ジェシカが舌打ちを返す。
「言われなくてもしてる」
「そうか」
無線もラジオも切ったまま、車は滑るように発進した。
車内は静かだった。
ただ、リリーが鼻歌を歌っている。それだけだ。
ジョージはバックミラーで確認し、次に視線を前方へ戻す。
ジェシカは黙ったまま、どこか遠くを見る目をしていた。
この子が何を聴いて育ち、
学校でどんな顔をしているか。
彼は知らないし、知ろうともしなかった。
だが――
抱えているものがある。
それだけは分かった。
「……スピード出しすぎじゃない?」
「制限速度以内だ」
「ふーん」
沈黙が、再び落ちた。
高校前。来客用の駐車スペースにハンドルを切る。
「ちょっと! 前で降ろしてよ!」
「代理保護者登録が必要だ。非常時のために」
「保護者って……あんたが?」
ジェシカは目を細め、大きくため息をついた。
ドアを開ける。無言で降りる。
「迎えは?」
「行く」
「……別に、いいけど」
バタン。
ドアの音が、朝に切れ目を入れた。
ジェシカは振り返らずに人波へ消える。
「さて、リリー」
後部座席から名前を呼ぶと、
彼女は姉の背中を見送ったあと、振り返って笑った。
「ジョージィー! だっこ!」
その声に、ジョージの頬がかすかに動いた。
静かに腕を伸ばし、彼女を抱き上げる。
「……付き合ってくれ。保育園の前に、ひとつだけな」