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010:ボディーガードの朝はブラックで

 朝食の匂いが、空間の隙間に染み込んでいた。

 スクランブルエッグ。ベーコン。バターの焼けたパン。

 馴染みのない香り。だが不快ではない。


「ジェシカ、リリー、急いで。

 学校に遅れるわよ」


 ナンシーの声がダイニングを包む。

 指示に対する反応は、正反対だった。


「わかってるってば」


 姉はスマホを睨みつけたまま、視線を寄越さない。

 一方の妹はベーコンを頬張りながら、あくび混じりに呟く。


「ねむい……」


 ジョージはソファの背にもたれたまま、会話の温度だけを感じ取っていた。

 朝食は断ってある。胃が拒絶する。


 だが、見ておく必要はある。

 ゆっくりと身体を起こし、ダイニングへ向かった。


 着席すると、リリーの顔がぱっと明るくなる。

 ジェシカの眉間には、逆の皺が刻まれた。


 ジョージは胸ポケットから2本のボールペンを取り出した。

 1本ずつ、ナンシーとジェシカの前へ置く。


「緊急用だ。

 ノック部分を5秒押すと、俺の端末に通知が飛ぶ。

 書き心地は悪い。が、一応、ペンだ」


 ジェシカが訝しげに転がす。

 信じていないわけではない。

 納得していないだけだ。


「……本当に、使えるの?」


 ジョージはスマホを出し、無言で頷く。

 ジェシカがノック部分を押す。

 数秒後、振動とともにブザー音。

 画面に、アラート。


 「……すごいわ」


 ナンシーが素直に感嘆し、ジェシカも渋々ながらペンを握った。


「まあ、持ってて損はないってことね」

「その通りだ」


 ジョージは短く答え、マグを机に置く。

 湯気は上がらない。冷めたコーヒーだった。


 リリーには別のものを渡した。

 フラミンゴのキーホルダー。中に小型GPSが仕込まれている。

 安物だが、精度は十分だ。


「とりさん、かわいい!」


 リリーは両手で握りしめた。

 その反応に、ジョージは何も言わない。

 ただ静かに頷くだけ。


 窓の外には、朝の日差し。

 犬の散歩。ジョガー。新聞配達。

 平和なふりをした朝。


 ジョージはそれらを視界に収めながら、鍵を手に取った。


「外を見てくる」


 ナッツを数粒、口に放る。

 顎を鳴らす音だけが、出発の合図だった。


 ガレージまでの道は短い。

 だが、観察対象は多い。

 路上のタイヤ痕。通りの監視カメラ。家の影の角度。

 ひとつひとつ、映像のように記憶に焼きつける。


 ジョージの足音が、湿ったアスファルトに溶けた。

 ガレージ前。彼の“相棒”が静かに佇んでいた。


 ホンダ・リッジライン――

 ジョージが選び抜いた車だった。


 ピックアップトラックでありながら、過剰な主張がない。

 モダン・スチール・メタリックの塗装は、光の加減で黒にも銀にも転ぶ。

 市街地でも山道でも、目立たず、沈み込む。


 ヘッドライトは猛禽類の眼のように鋭い。

 フロントグリルは格子の盾。

 重装甲ではないが、頑丈にして柔軟。

 必要最小限を研ぎ澄ました機能美。


 銃を持たなくても戦える者が好む車だった。

 ――無口で、妥協を知らない機械。


 シャッターを手動で上げる。軋む音が空気を裂く。

 その奥にもう一台、ナンシーの車が眠っていた。


 日産・ローグ――

 都会派SUVとして設計された機体。


 メタリックブルーのボディは朝日に濡れて、サファイアのように光る。

 スリムなLEDヘッドライトが前方を鋭く射抜き、フロントフェイスはまるで整った横顔のような整合性がある。


 だが、左側面。

 運転席ドアからリアフェンダーにかけて、一本の深い傷が走っていた。

 塗装をえぐる斜線。意図のない動きではない。


 ジョージは一瞥だけで、それが警告”として刻まれた線だと理解した。

 ナンシーが見せなかった闘いの痕跡。

 母としての顔の裏に、静かな脅迫が滲んでいた。


 リッジラインへと戻る。

 確認作業はルーチンではない。

 生存の儀式だ。


 タイヤの空気圧。

 ホイールナットの緩み。

 ホイールアーチ内の異物。


 地面にしゃがみ込み、シャーシの裏を覗き込む。

 不審な配線。磁器式トラッカー。液漏れの痕。

 異常なし。


 ドアハンドルに指を掛け、静かに電子ロックを解除。

 開閉音が一切響かぬように調整された手の力。

 シートに鼻を近づける。

 革の匂い、微かな埃。

 可燃物の臭いはない。


 グローブボックス、ダッシュボード、ステアリング下。

 全てチェック。想定されうるすべての罠を排除。


 最後に一度、街を見渡した。

 住宅の陰。電柱の影。対向車のフロント。

 目立つ動きはない。が、それは“今だけ”だ。


 ローグも同様に確認。


 女性と子供を乗せる車。だからこそ、油断はできない。

 センサー、フレーム、ワイパー周り。

 殺気のない部分にこそ、罠は仕掛けられる。


 ナンシーと子供たちの足音が背後から迫る。

 ジョージはそれを背中で感じ取りながら、

 車両のドアを静かに閉めた。



 リッジラインのエンジンが唸った。

 低音が車体を震わせ、呼吸と同調する。


 リリーはチャイルドシート。手の中でキーホルダーを転がす。

 ジェシカは助手席。腕を組み、外に視線を流している。


「シートベルト」


 短く促すと、ジェシカが舌打ちを返す。


「言われなくてもしてる」


「そうか」


 無線もラジオも切ったまま、車は滑るように発進した。

 車内は静かだった。

 ただ、リリーが鼻歌を歌っている。それだけだ。


 ジョージはバックミラーで確認し、次に視線を前方へ戻す。

 ジェシカは黙ったまま、どこか遠くを見る目をしていた。


 この子が何を聴いて育ち、

 学校でどんな顔をしているか。

 彼は知らないし、知ろうともしなかった。


 だが――

 抱えているものがある。

 それだけは分かった。


「……スピード出しすぎじゃない?」


「制限速度以内だ」


「ふーん」


 沈黙が、再び落ちた。


 高校前。来客用の駐車スペースにハンドルを切る。


「ちょっと! 前で降ろしてよ!」


「代理保護者登録が必要だ。非常時のために」


「保護者って……あんたが?」


 ジェシカは目を細め、大きくため息をついた。

 ドアを開ける。無言で降りる。


「迎えは?」


「行く」


「……別に、いいけど」


 バタン。

 ドアの音が、朝に切れ目を入れた。

 ジェシカは振り返らずに人波へ消える。


「さて、リリー」


 後部座席から名前を呼ぶと、

 彼女は姉の背中を見送ったあと、振り返って笑った。


「ジョージィー! だっこ!」


 その声に、ジョージの頬がかすかに動いた。

 静かに腕を伸ばし、彼女を抱き上げる。


「……付き合ってくれ。保育園の前に、ひとつだけな」



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