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011:沈黙の護衛、ジムに立つ

 午前10時過ぎ。

 ジョージはグレナン・フィットネスのドアを押した。


 軽快なBGMが流れ、ジム内には数人の利用者。

 ランニングマシン。エアロバイク。スミスマシン。

 静かに、だがそれぞれに汗を流している。


 施設はこぢんまりしている。

 だが死角は多く、出入口は明確。

 カウンターの奥にはカーディオエリア、反対側にはフリーウェイト。

 その隣、マットが敷かれたストレッチスペースでは女性たちが談笑中だった。


 ジョージは歩調を緩め、室内を一瞥する。

 視線は壁のミラー、窓の反射、死角の棚まで。

 レイアウトを、戦術図として頭に刻み込む。


 ──この街でアジア系は、そこまで珍しくない。

 だが、小柄で無口な“戦う気配”を纏った男となると、話は別だ。

 覚えられる。それが面倒だ。


 だからこそ、“見ている”ことは悟らせない。


 カウンターに立つナンシーが、ふと目を上げた。


「やあ」


「あら、ジョージ。……トレーニング?」


 彼女は声を変えない。

 ジムのオーナーとして。

 ジョージも頷くだけで応じた。


「ああ。せっかくだし、ここのルールに従う」


「ありがとう。無理しないでね」


 受付の手続きは簡単だった。

 だがジョージにとっては、それだけで十分だった。

 視線の動き、来訪者のログ、監視カメラの死角――必要な情報は全て見えた。


 ロッカーに入り、装備を最低限にする。

 上着を脱ぎ、長袖のコンプレッションシャツ。

 その上に薄手の半袖。グレーと黒で統一。目立たない配色。

 ストレッチしながら肩を鳴らす。

 鏡に映るのは、自身ではなく背後の客。


 ランニングマシンに立ち、ゆっくりと速度を上げる。

 ベルトの振動を足裏で感じながら、目は別の場所を見ていた。


 鏡越しの映像。空間全体の動線。非常口の位置。

 見えないところで、人は一番無防備になる。

 ジョージはそこを見ている。


 数分後、ウェイトエリアに移動。

 軽めのダンベルを手に取り、肩の可動域を確かめるフリ。

 肘の内角、鏡の角度、隣人の動き――視界に入るすべてを“使えるか”で分類していく。


 このジムは設備こそ悪くない。

 だが、防犯は甘い。

 快適性を優先した構造は、警戒を外す構造でもある。


 特に受付側からは、サンドバッグが死角にある。

 目立たない位置に吊るされた黒い袋。

 その前に立ち、ジョージは少しだけ迷った。


 ……問題ない。短時間なら。


 グローブをはめる。

 手首の巻き方はミリ単位。無駄な緩みは命取りになる。


 ── ジャブ。

 ── ストレート。

 ── 左フック。


 乾いた音が空間に溶ける。

 力まない。見せない。

 衝撃は手首から肘へ、芯を通してサンドバッグに届く。


 このジムで、サンドバッグを使う者は多くない。

 だからこそ、“軍の匂い”を消す。

 動きのクセを読まれるわけにはいかない。


 クールダウンを装いながら、ナンシーの方へ視線を投げた。

 彼女はカウンターで帳簿を見ていた。

 時折、スマホに目をやる。

 動きに不審はない。


 ――問題なし。

 今この時間帯に限っては、だが。


 ジョージはシャワー室へ向かう。

 廊下を歩く足音は吸音マットにかき消されていた。


 シャワーを短時間で済ませる。

 汗と匂いを落とすためだけの水。

 だが、護衛対象に不快感を与えないのも任務の一環だった。


 ロッカー前。

 乾いたTシャツに腕を通し、襟を軽く引いて馴染ませる。

 扉を閉める。


 カン。カン。


 ロッカーに額を2回、軽くぶつけた。

 ――呼吸を切り替える音。


 ジムを出る前、ナンシーがカウンターで利用者と談笑しているのが目に入った。

 笑顔は自然だった。言葉に嘘はなかった。


 ジョージは振り返らない。


 ――次は、問題があったあの倉庫を見に行く。

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