午前10時過ぎ。
ジョージはグレナン・フィットネスのドアを押した。
軽快なBGMが流れ、ジム内には数人の利用者。
ランニングマシン。エアロバイク。スミスマシン。
静かに、だがそれぞれに汗を流している。
施設はこぢんまりしている。
だが死角は多く、出入口は明確。
カウンターの奥にはカーディオエリア、反対側にはフリーウェイト。
その隣、マットが敷かれたストレッチスペースでは女性たちが談笑中だった。
ジョージは歩調を緩め、室内を一瞥する。
視線は壁のミラー、窓の反射、死角の棚まで。
レイアウトを、戦術図として頭に刻み込む。
──この街でアジア系は、そこまで珍しくない。
だが、小柄で無口な“戦う気配”を纏った男となると、話は別だ。
覚えられる。それが面倒だ。
だからこそ、“見ている”ことは悟らせない。
カウンターに立つナンシーが、ふと目を上げた。
「やあ」
「あら、ジョージ。……トレーニング?」
彼女は声を変えない。
ジムのオーナーとして。
ジョージも頷くだけで応じた。
「ああ。せっかくだし、ここのルールに従う」
「ありがとう。無理しないでね」
受付の手続きは簡単だった。
だがジョージにとっては、それだけで十分だった。
視線の動き、来訪者のログ、監視カメラの死角――必要な情報は全て見えた。
ロッカーに入り、装備を最低限にする。
上着を脱ぎ、長袖のコンプレッションシャツ。
その上に薄手の半袖。グレーと黒で統一。目立たない配色。
ストレッチしながら肩を鳴らす。
鏡に映るのは、自身ではなく背後の客。
ランニングマシンに立ち、ゆっくりと速度を上げる。
ベルトの振動を足裏で感じながら、目は別の場所を見ていた。
鏡越しの映像。空間全体の動線。非常口の位置。
見えないところで、人は一番無防備になる。
ジョージはそこを見ている。
数分後、ウェイトエリアに移動。
軽めのダンベルを手に取り、肩の可動域を確かめるフリ。
肘の内角、鏡の角度、隣人の動き――視界に入るすべてを“使えるか”で分類していく。
このジムは設備こそ悪くない。
だが、防犯は甘い。
快適性を優先した構造は、警戒を外す構造でもある。
特に受付側からは、サンドバッグが死角にある。
目立たない位置に吊るされた黒い袋。
その前に立ち、ジョージは少しだけ迷った。
……問題ない。短時間なら。
グローブをはめる。
手首の巻き方はミリ単位。無駄な緩みは命取りになる。
── ジャブ。
── ストレート。
── 左フック。
乾いた音が空間に溶ける。
力まない。見せない。
衝撃は手首から肘へ、芯を通してサンドバッグに届く。
このジムで、サンドバッグを使う者は多くない。
だからこそ、“軍の匂い”を消す。
動きのクセを読まれるわけにはいかない。
クールダウンを装いながら、ナンシーの方へ視線を投げた。
彼女はカウンターで帳簿を見ていた。
時折、スマホに目をやる。
動きに不審はない。
――問題なし。
今この時間帯に限っては、だが。
ジョージはシャワー室へ向かう。
廊下を歩く足音は吸音マットにかき消されていた。
シャワーを短時間で済ませる。
汗と匂いを落とすためだけの水。
だが、護衛対象に不快感を与えないのも任務の一環だった。
ロッカー前。
乾いたTシャツに腕を通し、襟を軽く引いて馴染ませる。
扉を閉める。
カン。カン。
ロッカーに額を2回、軽くぶつけた。
――呼吸を切り替える音。
ジムを出る前、ナンシーがカウンターで利用者と談笑しているのが目に入った。
笑顔は自然だった。言葉に嘘はなかった。
ジョージは振り返らない。
――次は、問題があったあの倉庫を見に行く。