昼過ぎのグレナンズ・フィットネスジムは、照明が落とされ、外の光だけがうっすらと差し込んでいた。
ジョージはマットの中央で、3人の女性に護身術の基本を教えていた。
今、彼の目の前にいるのはナンシーだ。
「背後から拘束されたときの対処法を教える」
ジョージが告げると、ナンシーは頷いた。
だがその瞳の奥、ほんの一瞬、光が揺れた。
ジョージは彼女の背後に回った。
両腕を静かに回し、固定する。
その瞬間――
ナンシーの体が、小さく震えた。
肩甲骨のあたりが、わずかに跳ねるように硬直する。
皮膚越しに伝わる体温は、少し高めだった。
緊張からくる微熱のようなものだった。
呼吸は喉の奥で詰まり、かすかな吐息が頬に触れた。
彼女の吐息が一瞬、ジョージの頬にかかる。
香水ではない、シャンプーの甘い香りと冷や汗の金属臭が混じる。
視界の端に、あの痣がちらついた。
「大丈夫だ。これは訓練だ」
耳元で、低く囁く。
ナンシーの肩がわずかに沈む。だが、震えは消えなかった。
ジョージは腕の角度を僅かに調整する。
締めつけは維持しつつ、逃げ道をひとつ残す。あえて。
華奢な身体だった。
女性らしい柔らかさの下に、しなやかな筋肉。
それを潰さず、ただ包む。
脳裏に浮かんだのは――キングスリー。
壁のような腕、圧力だけで従わせる暴力の塊。
ナンシーが記憶に焼きつけた“恐怖の原型”。
今、ジョージの腕にあるのは、それとは対極の柔らかさ。
壊れやすいが、抗う意志を宿した背中。
「まず、拘束された時の最大の問題は、腕が使えないことだ。
だが、足は動く。相手の股の内側に差し込め」
ジョージの声に、ナンシーが静かにうなずく。
反応は遅いが、意識は前に向いていた。
足を後ろに滑り込ませるその動きは、まだ甘い。
だが、止まってはいない。
彼女の吐息が浅くなっていることに気づく。
呼吸が、浅く、多く、乱れている。
(――フラッシュバック……沈む前に止める)
判断。
即座に、腕をほどく。
動きはあえてゆっくり。刺激を避けるためだ。
ジョージは静かに正面へ回った。
「もう一度、俺が後ろから拘束する。
そのまま言われた通りに動け」
声は冷静だった。
感情の色はない。
特別扱いはしない。
過去の傷をなぞらない。
ただ、教えるべき技術を教えるだけ。
「……わかった」
再び背後に立ち、拘束する。
さっきより少し強めに。
ナンシーの肩が一瞬跳ねたが、今度は震えなかった。
(変わったな)
「さっきの足の位置を意識しろ」
「……うん」
間。
「次に、後頭部で相手の顔を打つ。できるか?」
「後頭部? どうやって?」
「そのまま、思い切り後ろに頭を振る。狙うのは鼻か顎だ」
「そんなので効くの?」
「十分効く。特に鼻に当たれば、相手は怯む」
一拍の沈黙。
ナンシーが、控えめに頭を振る。
後頭部が、軽くジョージの鼻先に当たる。
衝撃は弱い。効果はない。
ジョージは反射的に顎を引いて受け流す。
ダメージを最小化する訓練が、体に染みついていた。
「もっと強く」
淡々とした命令。
ナンシーは息を吸い、後頭部を鋭く振り抜いた。
鋭い衝撃。
ジョージはわずかに顔をずらし、直撃を避ける。
鼻先に残る鈍い痛み。だが問題ない。
あえて、少しだけ受けた。
それが“使える動き”だったからだ。
「……いいだろう」
ジョージは手をわずかに緩めた。
「次に、足を踏みつけろ」
ナンシーの視線が落ちる。
だが、踏みつけは甘い。感覚が遠い。
「それじゃ相手は怯まない。
かかとで、本気で踏め。
感覚を知るんだ」
「本気で踏んでいいの?」
「踏め」
ためらいを断ち切るように、短く命じた。
数秒の静寂。
ナンシーのかかとが落ちる。
重く、鋭く。足の甲に衝撃が走った。
「っ……」
骨の芯に響いた。だが、これも訓練。
ナンシーの身体が、解放される。
「今のが成功例だ」
痛みを押さえながら告げた。
だが、その中に微かな満足が滲んでいた。
教えた技術が、形になりつつある。
「だが、まだ足りない」
「え?」
「ここまでやったら、すぐに肘打ちを入れろ。肋骨か、みぞおちを狙う」
素早く体の使い方を見せ、角度を指差しながら説明した。
「……私にできる?」
ナンシーの声には、微かに弱さがにじんだ。
「できる」
迷わず即答した。
その言葉に、ナンシーの背中から力が抜けた。
呼吸は乱れたまま。だが、怯えはもうそこになかった。
「もう一度」
ナンシーが振り向く。その瞳に、意志が灯っていた。
「いいだろう」
再び構えながら、ジョージは思った。
もう、この背中は、過去に縛られてはいない。
再び構えに入る、その瞬間。
グレナンズ・フィットネスジムの扉が、勢いよく開いた。