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047:震える背中に、力を教える


 昼過ぎのグレナンズ・フィットネスジムは、照明が落とされ、外の光だけがうっすらと差し込んでいた。

 ジョージはマットの中央で、3人の女性に護身術の基本を教えていた。


 今、彼の目の前にいるのはナンシーだ。


「背後から拘束されたときの対処法を教える」


 ジョージが告げると、ナンシーは頷いた。

 だがその瞳の奥、ほんの一瞬、光が揺れた。


 ジョージは彼女の背後に回った。

 両腕を静かに回し、固定する。


 その瞬間――

 ナンシーの体が、小さく震えた。

 肩甲骨のあたりが、わずかに跳ねるように硬直する。

 皮膚越しに伝わる体温は、少し高めだった。

 緊張からくる微熱のようなものだった。


 呼吸は喉の奥で詰まり、かすかな吐息が頬に触れた。

 彼女の吐息が一瞬、ジョージの頬にかかる。

 香水ではない、シャンプーの甘い香りと冷や汗の金属臭が混じる。

 視界の端に、あの痣がちらついた。


「大丈夫だ。これは訓練だ」


 耳元で、低く囁く。

 ナンシーの肩がわずかに沈む。だが、震えは消えなかった。

 ジョージは腕の角度を僅かに調整する。

 締めつけは維持しつつ、逃げ道をひとつ残す。あえて。


 華奢な身体だった。

 女性らしい柔らかさの下に、しなやかな筋肉。

 それを潰さず、ただ包む。


 脳裏に浮かんだのは――キングスリー。

 壁のような腕、圧力だけで従わせる暴力の塊。

 ナンシーが記憶に焼きつけた“恐怖の原型”。


 今、ジョージの腕にあるのは、それとは対極の柔らかさ。

 壊れやすいが、抗う意志を宿した背中。


「まず、拘束された時の最大の問題は、腕が使えないことだ。

 だが、足は動く。相手の股の内側に差し込め」


 ジョージの声に、ナンシーが静かにうなずく。

 反応は遅いが、意識は前に向いていた。

 足を後ろに滑り込ませるその動きは、まだ甘い。

 だが、止まってはいない。


 彼女の吐息が浅くなっていることに気づく。

 呼吸が、浅く、多く、乱れている。


(――フラッシュバック……沈む前に止める)


 判断。

 即座に、腕をほどく。

 動きはあえてゆっくり。刺激を避けるためだ。

 ジョージは静かに正面へ回った。


「もう一度、俺が後ろから拘束する。

 そのまま言われた通りに動け」


 声は冷静だった。

 感情の色はない。

 特別扱いはしない。

 過去の傷をなぞらない。

 ただ、教えるべき技術を教えるだけ。


「……わかった」


 再び背後に立ち、拘束する。

 さっきより少し強めに。

 ナンシーの肩が一瞬跳ねたが、今度は震えなかった。


(変わったな)


「さっきの足の位置を意識しろ」

「……うん」


 間。


「次に、後頭部で相手の顔を打つ。できるか?」

「後頭部? どうやって?」

「そのまま、思い切り後ろに頭を振る。狙うのは鼻か顎だ」

「そんなので効くの?」

「十分効く。特に鼻に当たれば、相手は怯む」


 一拍の沈黙。

 ナンシーが、控えめに頭を振る。

 後頭部が、軽くジョージの鼻先に当たる。

 衝撃は弱い。効果はない。


 ジョージは反射的に顎を引いて受け流す。

 ダメージを最小化する訓練が、体に染みついていた。


「もっと強く」


 淡々とした命令。

 ナンシーは息を吸い、後頭部を鋭く振り抜いた。


 鋭い衝撃。

 ジョージはわずかに顔をずらし、直撃を避ける。

 鼻先に残る鈍い痛み。だが問題ない。

 あえて、少しだけ受けた。

 それが“使える動き”だったからだ。


「……いいだろう」


 ジョージは手をわずかに緩めた。


「次に、足を踏みつけろ」


 ナンシーの視線が落ちる。

 だが、踏みつけは甘い。感覚が遠い。


「それじゃ相手は怯まない。

 かかとで、本気で踏め。

 感覚を知るんだ」

「本気で踏んでいいの?」

「踏め」


 ためらいを断ち切るように、短く命じた。


 数秒の静寂。

 ナンシーのかかとが落ちる。

 重く、鋭く。足の甲に衝撃が走った。


「っ……」


 骨の芯に響いた。だが、これも訓練。

 ナンシーの身体が、解放される。


「今のが成功例だ」


 痛みを押さえながら告げた。

 だが、その中に微かな満足が滲んでいた。

 教えた技術が、形になりつつある。


「だが、まだ足りない」

「え?」

「ここまでやったら、すぐに肘打ちを入れろ。肋骨か、みぞおちを狙う」


 素早く体の使い方を見せ、角度を指差しながら説明した。


「……私にできる?」


 ナンシーの声には、微かに弱さがにじんだ。


「できる」


 迷わず即答した。

 その言葉に、ナンシーの背中から力が抜けた。

 呼吸は乱れたまま。だが、怯えはもうそこになかった。


「もう一度」


 ナンシーが振り向く。その瞳に、意志が灯っていた。


「いいだろう」


 再び構えながら、ジョージは思った。

 もう、この背中は、過去に縛られてはいない。


 再び構えに入る、その瞬間。


 グレナンズ・フィットネスジムの扉が、勢いよく開いた。



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