ジムの扉が、乾いた音を立てて跳ね上がった。
「ここにいると聞いて! ジョージさん!!」
朗々と響く声。場の空気が揺れた。
ナンシーが振り返り、ジェシカが身を起こし、リリーが瞬きをする。
入り口に立っていたのは、190センチの巨体――ワラビーだった。
額には汗。顔には満面の笑み。
本人だけが平常運転だった。
ジョージは眉間にわずかなシワを寄せた。
「……ジェシカ」
疑いを含んだ視線を送る。
ジェシカは口元を押さえて笑いを堪えていた。
「だって、ワラビーも護身術に興味あるって言ってたし」
「興味本位でやるものじゃない」
乾いた声で返す。
だがワラビーは構わず一直線にジョージの正面まで歩み寄る。
「ジョージさん! ……いや、師匠!! オレにも教えてください!」
「師匠?」
耳慣れない単語に、首を傾ける。
ナンシーが小さくため息をついた。
「ちょっと、部外者に教えるのは……」
「お願いします!!」
拳を握ったまま、ワラビーは勢いよく頭を下げた。
その直線的な動きに、ナンシーの口が一瞬、止まる。
「……あなた、本当にやるつもりなの?」
「はい!」
即答。呼吸すら挟まなかった。
ナンシーがジョージを見る。
「ここは君のジムだ。君の判断にまかせる」
ジョージは短く頷いた。
ナンシーがワラビーに向き直る。
「学生向けのジム会員があるけど、それに入ってくれれば正式に教えられるわ」
「もちろん入ります!
今すぐ申し込みます!」
その即決ぶりに、ナンシーは苦笑し、カウンターへ向かった。
ワラビーが改めて振り返る。
「お願いします!
師匠に教わりたいんです!」
ジョージは無言で、ワラビーの耳元を見た。
ピアスがひとつ、鈍く光っていた。
「ファッションなのは構わないが、やるならまずその耳につけたピアスを外せ。怪我をする」
「えっ!? ってことは…」
返事の代わりに、ジョージは小さく頷いた。
ワラビーは即座にピアスを外し、ポケットへしまう。
顔を上げたときには、満面の笑みが戻っていた。
ジョージは小さく息をついた。
「……わかった」
◇
マット中央に立たせる。
「……まずは“倒れ方”を覚えろ」
低い声が空間を締めた。
ジムの空気が、一段深くなる。
「え、倒れ方?」
「受け身だ。予想できない角度で吹き飛ばされることもある。
受け身が取れなければ、命を落とす」
ジョージは正面に立ち、肩へ手を伸ばす。
「軽く押す。力を抜いて、背中で落ちろ」
「は、はいっ!」
合図と同時、軽く肩を押す。
だが巨体は耐え切れず、尻から落ちた。
マットが低く唸る。リリーが小さな声をあげた。
「……背中で受けろ。力を抜け。頭を打ったら終わりだ」
その瞬間、過去が脳裏を横切る。
視線が天井に逸れた。
「……俺が15の時だ。道場仲間が車に撥ねられた。目の前だった」
「えっ?!」
ワラビーの目が見開かれる。
「それで、どうなったんですか?」
「完璧な受け身だった。
ボンネットの上を転がり、衝撃を逃して、軽傷で済んだ。
彼女は俺より柔道がうまかった。
……あのとき、技術が命を救った。
倒れ方を知らなければ、あいつは死んでた」
静かな声に、誰も言葉を挟まなかった。
ワラビーが小さく頷く。
ジェシカの横顔に影が落ちる。何かを察した表情。
「まず倒れ方を覚えろ。立ち方は――そのあとだ」
視線で4人を捉える。
静かに言った。
「だが護身術は、戦うためのものじゃない」
ナンシーの息が止まり、ジェシカが耳を澄ます。
「最優先は逃げることだ」
淡々と続けた。
「どうしても逃げられない時だけ、相手を怯ませる。
そのための手段を教えている」
「でも、もし追いかけられたら?」
ジェシカが口を開いた。声に不安がにじむ。
「だから、一発で決めろ」
ジョージは短く切り返す。
「ためらわず動け。
相手の足を踏め。
喉を狙え。
目を突け。
迷うと捕まる」
リリーが小さく呟く。
「リリーは?」
「君は大きな声を出すんだ」
リリーが大きく息を吸って、叫ぶ。
「たすけてー!」
ジムに響く幼い声。
ジョージはわずかに頷いた。
「それでいい」
ナンシーが息を吐き、ジェシカもワラビーも、無言で頷く。
「忘れるな。戦うな。ためらうな。逃げろ」
それだけ言い残し、ジョージは再び指導に戻った。