家の中は静まり返っていた。
リリーはすっかり眠りにつき、ジェシカも部屋の扉を閉めている。
子供たちが寝静まると、家全体が一気に落ち着きを取り戻した。
ナンシーがハーブティーを片手にドアを開けると、ポーチにジョージがいた。
柵にもたれかかるようにして、炭酸水を少しずつ飲みながら、静かに夜を見つめている。
「こんな時間に外?」
ナンシーは軽く微笑みながら声をかけた。
ジョージは一瞥をくれるが、特に驚いた様子もなく、ただ「見回りだ」と短く答えた。
「そう……」
ナンシーは隣に立ち、わずかな距離に戸惑いながらも、温かいティーを一口含んだ。
——この距離を、ただの安心感と呼べるなら、それでいい。
自分にそう言い聞かせるように。
冷たい夜風が頬を撫でる。
しばらく沈黙が続く。
それを破ったのはナンシーだった。
「ねぇ、ジョージ」
ジョージは静かに視線を向ける。
「さっきのファミレスで、あなたあまり食べなかったわよね」
ジョージはほとんど反応を見せなかった。
代わりに、手の中の炭酸水のボトルを軽く振り、泡が弾ける音だけが響く。
「あなたって、普段から食が細いの?」
「……昔は、もう少し食えた」
「じゃあ、どうして?」
「……腹を撃たれた」
ナンシーの目がわずかに見開かれる。
だが、彼の口調はあくまで平坦で、感情が込められているようには見えなかった。
「……それで?」
「内臓をやられた。食う量を間違えると、消化が追いつかない」
ジョージはそう言いながら、ポケットから小さなナッツの袋を取り出し、一粒口に入れた。
ナンシーはその動作を見て、初めて気づく。
「……あなた、いつも少しずつ食べてるわね」
「その方が楽だ」
ナンシーは彼をじっと見つめた。
いつものことながら、彼は個人的な話を多く語らない。
だが、今は珍しく、自分のことを話している。
「……それだけじゃないでしょう?」
ジョージの手が一瞬止まる。
「ただ体の問題だけなら、もっと気をつけながらでも食べられるはず。
でも、あなたはどこか、食事そのものに対して抵抗があるように見えるの」
ジョージはゆっくりと息を吐いた。
「……昔、まともに食えない時期があった。
いつの間にか、食うことに興味がなくなった」
それだけ言って、炭酸水を口に含む。
ナンシーは彼の横顔を見つめた。
感情を押し殺すようなその声が、胸の奥に静かに沈んでいく。
この人は、きっと誰にも甘えたことがないのだろう。
そんな思いがよぎると、胸が痛んだ。
でも、——それ以上の感情に、名前はつけない。
つけてしまえば、境界が崩れてしまいそうで。
「……あなたがあまり食べない理由、何となく分かったわ」
「……そうか」
「でも、それでも言いたいことがあるの」
ジョージは少しだけ眉をひそめた。
「ちゃんと食べなさい」
ナンシーの声は、いつもより優しく、けれど真剣だった。
「体のこともあるかもしれない。
でも、あなたが少しずつ食べることで満足していても、私はあなたに元気でいてほしいのよ」
「……」
「それに、あなたがどれだけ過去に縛られていても、今は今でしょう?」
ジョージは一瞬だけ彼女を見た。
夜風に髪が揺れ、ナンシーの視線は真っ直ぐだった。
しばらく沈黙が続いた後、ジョージはふっと鼻を鳴らした。
「……まぁ、努力する」
「そうして」
ナンシーは満足げに微笑んだ。
ジョージは炭酸水を一口飲み、夜空を見上げた。
「星がきれいね」
ナンシーは言った。
ジョージは「ああ」とだけ言ったが、思い出したようにつづけた。
「……2年前、海の上で見た」
「何を?」
「火球」
「火球?」
「一瞬、昼みたいに明るくなった」
ナンシーは驚いたようにジョージを見た。
「どこで見たの?」
ジョージは微かに首を傾げる。
「……大西洋のフロリダ沖あたり、だったと思う。
あの時は、どこにいるのかも分かってなかったが」
ジョージは淡々と答える。
「……夜の海は真っ暗だ。波の音だけ。
そこに突然、空が燃えるみたいな光が走った」
「……なんだか、神秘的ね」
「実際、少し不思議な感覚だった」
ジョージの目には、かすかな記憶の残滓が滲んでいた。
「短い時間だったが、妙に印象に残っている」
ナンシーは静かに微笑んだ。
「そんなものを見られるなんて、なんだか羨ましいわ。
ねぇ、火球を見た時、何を思ったの?
……感動した?」
ジョージは空を見上げたまま、ゆっくりと瞬きをした。
「……もう少し、待ってみるかと思った」
ナンシーは聞き返そうとしたが、ジョージは「さあな」と肩をすくめただけだった。
「あなたって、不思議ね。
いつも無表情だけど、なんか楽しいことあるの?」
本当はもっと知りたかった。
でもこれ以上、踏み込んではいけない場所があるとわかっている。
だから、軽口のようにして聞いた。
「……あるかもしれない」
「例えば?」
ジョージは数秒考え、ぼそっと呟いた。
「……俺が用意したもんを、誰かがうまそうに食ってる時とか……か?」
ナンシーは、言葉の意味を理解して一瞬固まった。
「……そっか」
静かにハーブティーをすすりながら、ナンシーはふっと目を伏せた。
「おやすみ、ジョージ」
「おやすみ」
足が止まる。
振り返ると、ジョージは星を見上げたまま、微動だにしない。
その横顔に、夜の光が淡く影を落としていた。
綺麗だ、とナンシーは思った。
すらりとした顎の線、少し影を帯びた目元。
少年の面影をわずかに残しながら、もう二度と戻らない何かを抱えている顔。
その整った輪郭は、夜の静けさに溶け込むようだった。
作り込まれた美しさではない。
誰にも気づかれぬまま、痛みと引き換えに磨かれたもの。
彼が何も語らずに立っていることが、どうしようもなく胸を打った。
ナンシーはそっと近づいた。
ひと息ずつ間を詰め、もう一歩――
やがて、彼の頬に自分の吐息が触れる距離までにじり寄る。
顔を傾ければ、唇が届く。
今なら、彼は拒まない。
でも――それだけでは、足りなかった。
ナンシーは目を閉じかけて、そっと止めた。
胸の奥で、何かが静かに揺れる。
それは恐れではない。未練でもない。
自分で決めた。踏み出さないと。
すぐそこにある温もりから、そっと身を引いた。
ナンシーはかすかに笑った。
それは、敗北の笑みではなく、自分への合図のようなものだった。
「……やめとくわ」
囁くように残して、ゆっくりと踵を返す。
ドアの閉まる音だけが、静かな夜に響いた。
◇
ナンシーが家に戻ったあと、
ジョージはその場を動かなかった。
玄関ポーチに立ったまま、夜を見つめていた。
黒い空。沈黙した街。
音はなかった。
ポケットの中。
親指と人差し指が、ジッポの蓋を開け、閉じる。
小さな金属音が、闇の中で乾いて跳ねた。
目を閉じると、火球が焼きついていた。
まぶたの裏に、橙の残像が揺れる。
ひと呼吸。
煙も炎もない空に、ジョージは視線を残したまま思う。
(……もう少し、待ってみるか)