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050:その夜、キスより深く触れたもの

 家の中は静まり返っていた。

 リリーはすっかり眠りにつき、ジェシカも部屋の扉を閉めている。

 子供たちが寝静まると、家全体が一気に落ち着きを取り戻した。


 ナンシーがハーブティーを片手にドアを開けると、ポーチにジョージがいた。

 柵にもたれかかるようにして、炭酸水を少しずつ飲みながら、静かに夜を見つめている。


「こんな時間に外?」


 ナンシーは軽く微笑みながら声をかけた。

 ジョージは一瞥をくれるが、特に驚いた様子もなく、ただ「見回りだ」と短く答えた。


「そう……」


 ナンシーは隣に立ち、わずかな距離に戸惑いながらも、温かいティーを一口含んだ。

 ——この距離を、ただの安心感と呼べるなら、それでいい。

 自分にそう言い聞かせるように。


 冷たい夜風が頬を撫でる。

 しばらく沈黙が続く。

 それを破ったのはナンシーだった。


「ねぇ、ジョージ」


 ジョージは静かに視線を向ける。


「さっきのファミレスで、あなたあまり食べなかったわよね」


 ジョージはほとんど反応を見せなかった。

 代わりに、手の中の炭酸水のボトルを軽く振り、泡が弾ける音だけが響く。


「あなたって、普段から食が細いの?」

「……昔は、もう少し食えた」

「じゃあ、どうして?」

「……腹を撃たれた」


 ナンシーの目がわずかに見開かれる。

 だが、彼の口調はあくまで平坦で、感情が込められているようには見えなかった。


「……それで?」

「内臓をやられた。食う量を間違えると、消化が追いつかない」


 ジョージはそう言いながら、ポケットから小さなナッツの袋を取り出し、一粒口に入れた。

 ナンシーはその動作を見て、初めて気づく。


「……あなた、いつも少しずつ食べてるわね」

「その方が楽だ」


 ナンシーは彼をじっと見つめた。

 いつものことながら、彼は個人的な話を多く語らない。

 だが、今は珍しく、自分のことを話している。


「……それだけじゃないでしょう?」


 ジョージの手が一瞬止まる。


「ただ体の問題だけなら、もっと気をつけながらでも食べられるはず。

 でも、あなたはどこか、食事そのものに対して抵抗があるように見えるの」


 ジョージはゆっくりと息を吐いた。


「……昔、まともに食えない時期があった。

 いつの間にか、食うことに興味がなくなった」


 それだけ言って、炭酸水を口に含む。


 ナンシーは彼の横顔を見つめた。

 感情を押し殺すようなその声が、胸の奥に静かに沈んでいく。

 この人は、きっと誰にも甘えたことがないのだろう。


 そんな思いがよぎると、胸が痛んだ。

 でも、——それ以上の感情に、名前はつけない。

 つけてしまえば、境界が崩れてしまいそうで。


「……あなたがあまり食べない理由、何となく分かったわ」

「……そうか」

「でも、それでも言いたいことがあるの」


 ジョージは少しだけ眉をひそめた。


「ちゃんと食べなさい」


 ナンシーの声は、いつもより優しく、けれど真剣だった。


「体のこともあるかもしれない。

 でも、あなたが少しずつ食べることで満足していても、私はあなたに元気でいてほしいのよ」

「……」

「それに、あなたがどれだけ過去に縛られていても、今は今でしょう?」


 ジョージは一瞬だけ彼女を見た。

 夜風に髪が揺れ、ナンシーの視線は真っ直ぐだった。


 しばらく沈黙が続いた後、ジョージはふっと鼻を鳴らした。


「……まぁ、努力する」

「そうして」


 ナンシーは満足げに微笑んだ。

 ジョージは炭酸水を一口飲み、夜空を見上げた。


「星がきれいね」


 ナンシーは言った。

 ジョージは「ああ」とだけ言ったが、思い出したようにつづけた。


「……2年前、海の上で見た」

「何を?」

「火球」

「火球?」

「一瞬、昼みたいに明るくなった」


 ナンシーは驚いたようにジョージを見た。


「どこで見たの?」


 ジョージは微かに首を傾げる。


「……大西洋のフロリダ沖あたり、だったと思う。

 あの時は、どこにいるのかも分かってなかったが」


 ジョージは淡々と答える。


「……夜の海は真っ暗だ。波の音だけ。

 そこに突然、空が燃えるみたいな光が走った」

「……なんだか、神秘的ね」

「実際、少し不思議な感覚だった」


 ジョージの目には、かすかな記憶の残滓が滲んでいた。


「短い時間だったが、妙に印象に残っている」


 ナンシーは静かに微笑んだ。


「そんなものを見られるなんて、なんだか羨ましいわ。

 ねぇ、火球を見た時、何を思ったの?

 ……感動した?」


 ジョージは空を見上げたまま、ゆっくりと瞬きをした。


「……もう少し、待ってみるかと思った」


 ナンシーは聞き返そうとしたが、ジョージは「さあな」と肩をすくめただけだった。


「あなたって、不思議ね。

 いつも無表情だけど、なんか楽しいことあるの?」


 本当はもっと知りたかった。

 でもこれ以上、踏み込んではいけない場所があるとわかっている。

 だから、軽口のようにして聞いた。


「……あるかもしれない」

「例えば?」


 ジョージは数秒考え、ぼそっと呟いた。


「……俺が用意したもんを、誰かがうまそうに食ってる時とか……か?」


 ナンシーは、言葉の意味を理解して一瞬固まった。


「……そっか」


 静かにハーブティーをすすりながら、ナンシーはふっと目を伏せた。


「おやすみ、ジョージ」

「おやすみ」


 足が止まる。

 振り返ると、ジョージは星を見上げたまま、微動だにしない。

 その横顔に、夜の光が淡く影を落としていた。


 綺麗だ、とナンシーは思った。


 すらりとした顎の線、少し影を帯びた目元。

 少年の面影をわずかに残しながら、もう二度と戻らない何かを抱えている顔。


 その整った輪郭は、夜の静けさに溶け込むようだった。

 作り込まれた美しさではない。

 誰にも気づかれぬまま、痛みと引き換えに磨かれたもの。


 彼が何も語らずに立っていることが、どうしようもなく胸を打った。

 ナンシーはそっと近づいた。

 ひと息ずつ間を詰め、もう一歩――


 やがて、彼の頬に自分の吐息が触れる距離までにじり寄る。


 顔を傾ければ、唇が届く。


 今なら、彼は拒まない。

 でも――それだけでは、足りなかった。


 ナンシーは目を閉じかけて、そっと止めた。

 胸の奥で、何かが静かに揺れる。

 それは恐れではない。未練でもない。


 自分で決めた。踏み出さないと。


 すぐそこにある温もりから、そっと身を引いた。


 ナンシーはかすかに笑った。

 それは、敗北の笑みではなく、自分への合図のようなものだった。


「……やめとくわ」


 囁くように残して、ゆっくりと踵を返す。


 ドアの閉まる音だけが、静かな夜に響いた。



 ナンシーが家に戻ったあと、

 ジョージはその場を動かなかった。


 玄関ポーチに立ったまま、夜を見つめていた。

 黒い空。沈黙した街。

 音はなかった。


 ポケットの中。

 親指と人差し指が、ジッポの蓋を開け、閉じる。

 小さな金属音が、闇の中で乾いて跳ねた。


 目を閉じると、火球が焼きついていた。

 まぶたの裏に、橙の残像が揺れる。


 ひと呼吸。

 煙も炎もない空に、ジョージは視線を残したまま思う。


(……もう少し、待ってみるか)


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