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051:いたいのいたいの、とんでいけー


――夢を見ていた。

 息の詰まるような、あの夜の続き。


 空気は乾いていた。

 砂と血の匂いが入り混じる。

 喉を裂かれた兵士が、音もなく崩れる。

 声も、叫びも、祈りもない。

 ジョージは、ただ刃を差し込み、止めを刺していった。

 機械のように。

 任務のために。

 冷え切った心で。


 その最中、遠くから声が響いた。


「おまえは何も感じないのか?」


 ヴィンセントの声だった。

 夢か記憶か……もはや区別もつかない。


「なあジョージ、あんとき、おまえ……何も感じなかったのかよ」


 返事はなかった。

 いや、できなかった。

 感じなかったんじゃない。

 感じることを――やめたんだ。

 仲間を守りたくて。

 何も失いたくなくて。



 目を開けると、部屋は闇の中に沈んでいた。

 時計の針は、深夜の2時を少し過ぎた頃を示していた。

 冷たい汗が、首筋に張りついている。

 右脇腹の古傷に、無意識に指が触れた。

 少し、震えていた。


 静まり返った家の中で、ただ冷蔵庫の音だけが耳に残る。

 ジョージはゆっくりと身を起こし、薄暗いリビングを見渡した。

 毛布が足元に落ちている。

 ソファの脇に転がったぬいぐるみが、

 ここが戦場ではなく“日常”だと教えてくれていた。


( ……それでも、俺は、まだここにいる)


 拾い上げた毛布を手繰り寄せ、ソファにもたれた。

 もう一度目を閉じたが、眠気は戻ってこなかった。



 ふと、小さな声がした。


「……ジョージィー?」


 目を開けると、廊下にリリーが立っていた。

 毛布とユニコーンのぬいぐるみを引きずり、裸足のまま、目をこすっている。


「どうした?」


 低く、静かに訊ねた。


「ねむれないの……こわいゆめ、みた……」


 その一言に、ジョージのまぶたがわずかに動いた。


「……だっこ、して?」


 ジョージは手を差し出した。


「ああ」


 リリーは笑って、ジョージの腕にすっぽりと収まった。

 そのままソファにもたれかかる。

 小さな体が、ひどくあたたかい。

 胸の奥に火種が灯るような感覚があった。


 そのときだった。

 リリーの小さな指が、シャツの隙間から脇腹に滑り込んだ。

 古い傷に触れ、彼女の指が止まる。

 ジョージの肩がわずかに揺れた。無意識の反応だった。

 肋骨の裏側を、誰かがそっと突いたような鈍い痛み。


 リリーは、指先の違和感に小さく首をかしげると、シャツの裾をめくった。


「……ここ、いたいの?」


 その言葉に、ジョージの喉が鳴る。

 言葉が出ない。

 タトゥーの一部が、傷跡に沿って浮かび上がっていた。

 黒いインクの線が、古い痕と交差しながら、静かに皮膚の上を走っている。


 ジョージはとっさに、リリーの視線を遮るようにシャツを戻した。

 だが、彼女はすでに見ていた。


「……やじるし、かいてあるの?」


 子どもらしい直感と観察眼。

 彼女は何の偏見も持たず、ただ目にしたものを、言葉にしただけだった。


 ジョージは、わずかに目を伏せる。

 拒むような強さではないが、それ以上、何も言いたくないという沈黙。


 リリーは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を変えることもなく、そっと手のひらをジョージの脇腹に当てた。


「いたいのいたいの、とんでいけー……」


 その声は、まるで呪文だった。

 静寂の中で、それだけがやけに優しく響いた。


 そしてリリーは、ジョージの肩に頬を預ける。

 何の警戒も、何の恐れもない。

 まるで、最初から彼が“ここにいるべき人間”であるかのように。


 ジョージは、そっと彼女を抱きしめた。

 心臓の鼓動が、いつの間にか静かに整っていた。


 ナイフでも、銃でも、どんな武器でさえ、あの言葉には敵わない。

 そんなふうに思ったのは、おそらく、生まれて初めてだった。



 リリーは、すぐに寝息を立てはじめた。

 ジョージは彼女をやさしく抱きながら、ゆっくりとリビングを出た。


(……守りたい、と思った)


 それが、どれほど愚かな願いかはわかっている。

 戦場から戻った手は、洗っても洗っても落ちやしない。


 それでも、今だけは。


 このぬくもりだけは、たとえ次に戻る場所がどれだけ冷たくても、忘れずにいたいと思った。









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