ホステスと消えていくジョニーを見送り、
チャット――いや今夜の“レオン”は、ひとつ小さく息を吐いた。
振り返り、足を向けるのはバーカウンター。
歩幅は崩さない。背筋も。
ただ、視線だけが仕事に切り替わっていた。
バーテンダーは手慣れた手つきでシェイカーを振っていた。
ガラス越しの客を横目に見ながら、
近づく“レオン”に視線だけで応じる。
チャットは肘をつき、軽く指を鳴らした。
その動きで、バーテンダーの目元が僅かに緩む。
手が止まり、チャットがその耳元に口を寄せる。
爆音に消されない、距離と角度。
「ヘイ、マスター。
今夜は特別な夜にしたくてね」
声は滑らか。だが芯は通っている。
バーテンダーは無表情を保ったまま応じる。
「VIPのお客様ですね。
何をお作りしましょう?」
チャットは微笑む。
ポケットから折りたたまれた紙幣を数枚、指先で滑らせた。
それを、自然な流れでバーテンダーの手の中に滑り込ませる。
「酒のことじゃない」
バーテンダーの指が一瞬止まる。
チャットはにやりと笑い、言葉を続ける。
「俺たち、今夜は“長い夜”を楽しみたいんだ。
分かるだろ?
――女と、たっぷり遊ぶ夜ってやつさ」
バーテンダーは表情を動かさない。
だが、その沈黙は「理解している者」のそれだった。
チャットは、あえて肩をすくめて見せる。
「だがな……ジョニー・ウー様は、酒に弱くてさ。
潰れるのが早いと、夜が台無しになる。
せっかく上物を連れて帰っても、グデングデンじゃどうしようもねぇ」
バーテンダーの口元が、わずかに上がった。
「……なるほど。お客様の“パフォーマンス維持”のため、ということですか」
チャットは指を鳴らし、満足げに笑う。
「話が早いね、マスター。
要するに――俺たちのグラスだけ、“特別仕様”で頼む」
バーテンダーは手の中の紙幣をチラリと見て、何の迷いもなくエプロンのポケットに滑り込ませた。
「……お客様の夜が、長く続くように調整しましょう」
チャットは軽く頷く。
「いいね、その言葉、気に入ったよ」
バーテンダーが薄く笑みを返す。
「ほかの方々には、しっかり楽しんでいただけるように?」
チャットの眉が少しだけ跳ね上がる。
「もちろんさ。他の客には、正真正銘の夜を提供してやらなきゃな?」
そう言って指を鳴らし、
カウンターから身体を起こす。
「じゃあ、成功報酬はまた後でな」
それだけ残し、背を向ける。
計算済みの笑顔を捨て、冷静な観察者に戻る。
足音は静かに、VIPルームへ向かって消えていった。
――これで、どれだけ飲んで見せようと問題はない。
夜が深まるごとに、“ジョニー・ウーは酒に強く、女にモテる男”という虚構が、自然に完成する。
チャットはジャケットの前を整えながら、思う。
あとは、主役が舞台で踊るだけだ。
◇
VIPルームのドアが、圧のある静けさで開く。
スモーク。光。
甘ったるい香水と酒の残り香が入り混じる空間に、
ジョニー・ウーが現れた。
金の指輪を幾つもはめ、胸元を深く開けたシャツ。
その隙間から覗くのは、蛇のようにうねるゴールドチェーン。
場を見渡し、顎をしゃくる。その動きひとつで、空気が変わる。
「うーん、悪くねぇな。
けど……安っぽいワインの匂いが鼻につくぜ」
テーブルにいた若い男がわずかに顔をしかめる。
女が耳打ちし、彼は肩をすくめた。
そこへチャットが入ってくる。
視線は向けない。
ジョニーは札束を取り出す。
ティッシュでも投げるように、ふわりと空中に放った。
「ほらよ。空気悪ぃな。これで浄化しろ」
札束が弧を描き、床とテーブルに散る。
「……てめぇ」
「ん? 何だ、お前も欲しいのか?」
ジョニーがもう一束を取り出す。
それは、軽蔑ではなく、余裕の笑みだった。
「犬みてぇに吠えてないで、拾ってろ。
遊び代にでもしてやるよ。小遣いってやつだ」
音もなく、空気が変わる。
男たちは怒鳴らず、殴らず、ただ黙って席を立った。
「もういい、帰るぞ」
「やべぇのが来たな……関わるな」
残された女たちも、視線を逸らし、そそくさと離れる。
会話もなく。挑発もなく。
ただ「何かが違う」と察して、逃げた。
ジョニーはソファに体を預け、片肘を背もたれに乗せる。
「やれやれ……ようやく静かになったな。
で、キングスリーってのは、どこで油売ってんだ?」
ジョージの声は、火の気のない硝煙のように、空間の底を這った。
チャット――レオンは、唇の端をわずかに持ち上げる。
だが、その笑みには熱がなかった。
笑ってはいない。
ただ、心の中で、冷静に状況を捌いていた。
(これで余計な視線は消えた。
……動くには、ちょうどいい。完璧だ)
短時間でここまで演じきる胆力。
その場の空気を塗り替える圧。
攻撃にもならず、防御にもならず、ただ“浮かび上がる支配”。
(あれは普通なら、三流の道化芝居。
だが、あいつがやると……空気そのものが従う)
声のトーン、沈黙の置き方、
呼吸ひとつで空間が変わる。
(……お前は、怖いよ。ジョージ)
チャットは思い出す。
自分は口先で人を転がしてきた。
だがこの男は、言葉すら使わず、他人の心の“居場所”を奪う。
(沈黙で全部持ってくタイプ……マジで、嫌なやつだ)
それでも役割は理解していた。
主役はジョージ。
自分は“光を当てる側”。
だからこそ、立ち位置は崩さない。
「……キングスリー氏にはすでに連絡してあります。
すぐにお見えになるかと」
冷静に。丁寧に。だが、すでに警戒レベルは上がっている。
その裏で、レオンは目を細めた。
ジョニー・ウーの舞台は、まだ始まったばかりだった。