目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

057:フェーズ・1 リスクを減らせ

 ホステスと消えていくジョニーを見送り、

 チャット――いや今夜の“レオン”は、ひとつ小さく息を吐いた。


 振り返り、足を向けるのはバーカウンター。

 歩幅は崩さない。背筋も。

 ただ、視線だけが仕事に切り替わっていた。


 バーテンダーは手慣れた手つきでシェイカーを振っていた。

 ガラス越しの客を横目に見ながら、

 近づく“レオン”に視線だけで応じる。


 チャットは肘をつき、軽く指を鳴らした。

 その動きで、バーテンダーの目元が僅かに緩む。


 手が止まり、チャットがその耳元に口を寄せる。

 爆音に消されない、距離と角度。


「ヘイ、マスター。

 今夜は特別な夜にしたくてね」


 声は滑らか。だが芯は通っている。


 バーテンダーは無表情を保ったまま応じる。


「VIPのお客様ですね。

 何をお作りしましょう?」


 チャットは微笑む。

 ポケットから折りたたまれた紙幣を数枚、指先で滑らせた。

 それを、自然な流れでバーテンダーの手の中に滑り込ませる。


「酒のことじゃない」


 バーテンダーの指が一瞬止まる。


 チャットはにやりと笑い、言葉を続ける。


「俺たち、今夜は“長い夜”を楽しみたいんだ。

 分かるだろ?

 ――女と、たっぷり遊ぶ夜ってやつさ」


 バーテンダーは表情を動かさない。

 だが、その沈黙は「理解している者」のそれだった。


 チャットは、あえて肩をすくめて見せる。


「だがな……ジョニー・ウー様は、酒に弱くてさ。

 潰れるのが早いと、夜が台無しになる。

 せっかく上物を連れて帰っても、グデングデンじゃどうしようもねぇ」


 バーテンダーの口元が、わずかに上がった。


「……なるほど。お客様の“パフォーマンス維持”のため、ということですか」


 チャットは指を鳴らし、満足げに笑う。


「話が早いね、マスター。

 要するに――俺たちのグラスだけ、“特別仕様”で頼む」


 バーテンダーは手の中の紙幣をチラリと見て、何の迷いもなくエプロンのポケットに滑り込ませた。


「……お客様の夜が、長く続くように調整しましょう」


 チャットは軽く頷く。


「いいね、その言葉、気に入ったよ」


 バーテンダーが薄く笑みを返す。


「ほかの方々には、しっかり楽しんでいただけるように?」


 チャットの眉が少しだけ跳ね上がる。


「もちろんさ。他の客には、正真正銘の夜を提供してやらなきゃな?」


 そう言って指を鳴らし、

 カウンターから身体を起こす。


「じゃあ、成功報酬はまた後でな」


 それだけ残し、背を向ける。

 計算済みの笑顔を捨て、冷静な観察者に戻る。

 足音は静かに、VIPルームへ向かって消えていった。


 ――これで、どれだけ飲んで見せようと問題はない。

 夜が深まるごとに、“ジョニー・ウーは酒に強く、女にモテる男”という虚構が、自然に完成する。


 チャットはジャケットの前を整えながら、思う。

 あとは、主役が舞台で踊るだけだ。



 VIPルームのドアが、圧のある静けさで開く。


 スモーク。光。

 甘ったるい香水と酒の残り香が入り混じる空間に、

 ジョニー・ウーが現れた。


 金の指輪を幾つもはめ、胸元を深く開けたシャツ。

 その隙間から覗くのは、蛇のようにうねるゴールドチェーン。

 場を見渡し、顎をしゃくる。その動きひとつで、空気が変わる。


「うーん、悪くねぇな。

 けど……安っぽいワインの匂いが鼻につくぜ」


 テーブルにいた若い男がわずかに顔をしかめる。

 女が耳打ちし、彼は肩をすくめた。


 そこへチャットが入ってくる。

 視線は向けない。

 ジョニーは札束を取り出す。

 ティッシュでも投げるように、ふわりと空中に放った。


「ほらよ。空気悪ぃな。これで浄化しろ」


 札束が弧を描き、床とテーブルに散る。


「……てめぇ」


「ん? 何だ、お前も欲しいのか?」


 ジョニーがもう一束を取り出す。

 それは、軽蔑ではなく、余裕の笑みだった。


「犬みてぇに吠えてないで、拾ってろ。

 遊び代にでもしてやるよ。小遣いってやつだ」


 音もなく、空気が変わる。

 男たちは怒鳴らず、殴らず、ただ黙って席を立った。


「もういい、帰るぞ」

「やべぇのが来たな……関わるな」


 残された女たちも、視線を逸らし、そそくさと離れる。

 会話もなく。挑発もなく。

 ただ「何かが違う」と察して、逃げた。


 ジョニーはソファに体を預け、片肘を背もたれに乗せる。


「やれやれ……ようやく静かになったな。

 で、キングスリーってのは、どこで油売ってんだ?」


 ジョージの声は、火の気のない硝煙のように、空間の底を這った。


 チャット――レオンは、唇の端をわずかに持ち上げる。

 だが、その笑みには熱がなかった。


 笑ってはいない。

 ただ、心の中で、冷静に状況を捌いていた。


(これで余計な視線は消えた。

 ……動くには、ちょうどいい。完璧だ)


 短時間でここまで演じきる胆力。

 その場の空気を塗り替える圧。

 攻撃にもならず、防御にもならず、ただ“浮かび上がる支配”。


(あれは普通なら、三流の道化芝居。

 だが、あいつがやると……空気そのものが従う)


 声のトーン、沈黙の置き方、

 呼吸ひとつで空間が変わる。


(……お前は、怖いよ。ジョージ)


 チャットは思い出す。

 自分は口先で人を転がしてきた。

 だがこの男は、言葉すら使わず、他人の心の“居場所”を奪う。


(沈黙で全部持ってくタイプ……マジで、嫌なやつだ)


 それでも役割は理解していた。

 主役はジョージ。

 自分は“光を当てる側”。


 だからこそ、立ち位置は崩さない。


「……キングスリー氏にはすでに連絡してあります。

 すぐにお見えになるかと」


 冷静に。丁寧に。だが、すでに警戒レベルは上がっている。

 その裏で、レオンは目を細めた。


 ジョニー・ウーの舞台は、まだ始まったばかりだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?