負けが込み始めた。
札が微妙にズレる。流れが滞る。
場に漂う空気に、わずかな淀み。
そのとき、ジョージが椅子を引いた。
酒のグラスを片手に、肩を一度、重たげに回す。
「……トイレ。下手すりゃ、戻んの遅くなる」
声は気だるく低い。
だが、その背中には演技の匂いが一切なかった。
スタッフとディーラーが視線を交わす。
VIPの一言に、誰も異を唱えられない。
チャットが立ち上がる。
さりげない所作で一礼しながら、場を引き取った。
「お預かりしますんで」
言葉と同時に、テーブル上の札束の一部を、自分の手元へ寄せる。
わずか数センチ。
それだけで、“芝居の継続”を告げるには十分だった。
──裏手、ステージの奥。
ジョージは、迷いなく通路を進んだ。
防音扉を抜け、控室へ。
簡素な部屋。ソファに男がひとり。
スーツに身を包み、スマホの画面をスクロールしている。
今夜のMC。ステージの指揮役。
男は視線を上げた。違和感に気づく。
「……おい、誰──」
次の瞬間には、ジョージが背後を取っていた。
声は出させない。
腕が喉に回り、声帯を避けて圧迫する。
動きは静かで、無駄がなかった。
3秒。脳がシャットダウンするには、それで足りる。
男の体が沈む。
ジョージは呼吸を整えることなく、そのまま扉を引き直した。
元いた空気に戻る。
表情はそのまま。演目の続きを演じる者の顔。
チャットの耳元に、囁く。
「レオン。行け」
チャットはグラスを置き、口元をわずかに緩めた。
「お膳立てあんがと」
◇
ライトが弾けた。
フロアの視線をさらっていったのは、染めた金髪を無造作に撫でつけ、笑うでもなく挑むでもない薄い表情を湛えた男だった。
均整の取れた輪郭に、影を引くような整った眉。
そして何より、人々の意識を吸い寄せたのはその瞳――
青とも緑ともつかぬ、曇り硝子のようなグレイッシュ・ブルーグリーン。
女はその光に道を見失いたくなり、男は本能的に目を逸らしたくなる。
冗談のような顔立ちだった。
銀幕の中でしか生きられないはずの顔が、今そこに立っていた。
クラブの空気が、一拍遅れてざわめきを取り戻す。
まるで、舞台に役者が現れたあとに起きる、無意識の拍手のように。
肩肘張らずに着こなした真っ白なスーツは、舞台照明と混ざり合って、彼を天使と悪魔の中間地点のように見せていた。
「
少しだけ掠れた、艶のある声がマイクを満たす。
その声だけで、空気が一段階落ち着いた。
マイクを握ったチャットの顔は、一瞬恍惚に染まった。
ドーパミンが脳内を駆け巡り、指先がわずかに震える。
──ああ、これだ……。
これが俺の居場所だ――
「視線のすべてが自分に向く」その瞬間が、脳の奥を痺れさせる。
もはや、麻薬だった。
まるでこれをやるためだけに、この世に生まれてきたような錯覚さえ覚えていた。
「はじめまして。
わたしは、レオン・ドゥシャン=ヴァレリエールです。
ご心配なく──誰も一度で呼べた試しがないんで、レオンでいいですよ。
今夜のMC、急きょ代役になりました。
理由は……とても言えません。
わたしの口と、このクラブの弁護士の口は、同じくらい堅いんで」
フロアに笑いが走る。
その波を受けて、チャットは余裕の笑みを浮かべたまま歩き出す。
白いスーツが、黒いフロアを滑るように進む。
「まあでも──心配ご無用。
わたしがここに立つってことは、今夜はちょっとだけ、映画より面白くなるってことだ。
Sing it like you want to sing it!(好きなように歌え!)
Do it like you wanna do it!(好きなようにやれ!)──ってね。
いいかい? 今夜は、“こうすべき”なんてルールは置いてきて、思いっきり楽しもうぜ!」
観客がどっと湧く。
舞台の主導権は、完全に“レオン”のものになった。
「……そこの嬢ちゃん、笑顔がステージより眩しいね。
あとで踊り子にスカウトされるかもよ?
……お、そっちのダンディ。
奥さんの手を握りつつ、目線が1メートル右にズレてる。
気をつけて、今夜は誰が見てるか分からない」
ジョークと色気が絶妙に絡み合う。
チャットのトークは、押しつけがましくないのに、確実に人を惹きつけていく。
「……ああ、大丈夫。全部ジョークさ。
わたしの人生と同じ。
半分嘘で、半分奇跡でできてる」
チャットはマイクを持ち替えて叫んだ。
「この街の夜は長い。
でも、今この瞬間だけは──わたしたち全員が主役だ!
さあ、注目のダンスショーの前に──一発、盛り上げていこうか!」
照明が落ち、音楽が鳴る。
「曲名は―― 80KIDZのO-A-O-A-Y (feat. Taro Abe)」
観客が釘付けになっているその裏で、ジョージは2階のVIPルームから1階のフロアを見下ろしていた。
冷たい目で、音と光に浮かぶ顔を一人一人、なぞるように。
──盗聴器を仕掛けるには、あと10分。
◇
【あとがき】
本文にも出てきました、
80KIDZのO-A-O-A-Y (feat. Taro Abe)
この曲の軽快なリズム、テンポ、そして歌詞。
チャットというキャラクターは、この曲からインスピレーションを受けました。
I’m in the moonlight and there’s something good
今ここにいるのさ、月明かりの下。
ちょっとイイ感じの空気、漂ってるだろ?
I’ll make the world for you
君のためなら、世界ぐらい作ってやるっての
Just a little bit of determination is just
Enough to set you up high
ほんの少しの覚悟があれば、君は高く飛べる
When you see through it, I rock the mic hard, my heart is to it
君が見抜けたら、俺はマイクを握るぜ。心からな
A little bit of love A little bit of love A little bit of love can elevate
ほんの少しの愛でいい。
それだけで、人は高く飛べる。マジで