「今夜のMC……急きょ代役になりました」
声に艶がある。
滑らかで、よく通る。
フロアの空気が、チャットの掌に収まりはじめる。
「理由は……とても言えません。
わたしの口と、このクラブの弁護士の口は、同じくらい堅いんで」
笑いが起きた。拍手も。
客たちはすでに“その気”だった。
だが、ステージの外周。
照明ブース、PA席、スタッフ用の動線――
そこにいる人間たちの空気だけが、逆向きに流れはじめる。
「……誰だあいつ」
「MCは?」
「許可は出したか?」
「いや、聞いてない」
「マイク、誰が渡した」
「止めるか?」
「今は無理だ……客が全員、注目してる。
手を出せば、騒ぎになる……」
インカム越しの声は、断片的に重なりながら、焦りに染まっていく。
だが、表には出せない。
静かに、確実に混乱は広がっていた。
その裏で、別の男が動いていた。
――ジョージ。
黒い空気の中を、音もなく進む。
背後ではチャットの芝居が、音楽と歓声のように響いている。
左手に、小型カメラ。
消しゴムほどのそれを指先で滑らせながら、ジョージは天井を見上げる。
照明の縁、配線カバーの内側、スピーカーの背面。
視線の死角。音の通路。
“一度通っただけじゃ気づかない場所”だけを狙う。
(……要るのは、“脅しになる絵”だ)
キングスリーがドラッグに触れる瞬間。
札束を手渡す指先。
気の緩んだ笑み。
顔の距離。声のトーン。
法には届かない。
だが、“提出されたらマズい映像”にはなる。
それで十分だ。
ジョージの動きに迷いはなかった。
誰がどこを通るか。視線がどこへ流れるか。
全てを逆算しながら、歩く。貼る。離れる。
(ここは音だけでいい。
……だが、VIPルームは顔を押さえる。
指の動きも、身体の距離も)
彼の中で、すでにキングスリーの“罪”は何パターンも組み上がっていた。
これは予想ではない。
――構築だ。
ダクト上。額縁の裏。
ラウンジの奥、スピーカー横。
どのアングルから、どの順で見せれば、もっとも効果的か。
証拠じゃない。
これは、兵器だ。
最後の盗聴器を、裏通路の配電盤裏に仕込む。
貼り付けてから、わずかに手を止めた。
時計を見る。
まだ間に合う。
チャットの声が、遠くの方で観客を沸かせていた。
表の役者と、裏の狩人。
舞台は整いつつあった。