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067:疲労困憊の夜明け前

 モーテルでシャワーを浴び、チャットと別れたのは深夜だった。

 そのまま走り続けて、ナンシーの家に着いたのは、東の空がかすかに染まりはじめた頃。

 夜と朝の境目。空気は冷え、肌に薄くまとわりつく。


 ジョージはリッジラインを静かに降り、ドアを指先で押し戻す。音はほとんど出なかった。

 クラブでの作戦は成功。

 だが、張り詰めた神経のあとに残るのは、沈黙と重さだけだった。


 足音を殺して玄関前に立つ。


 ――そのとき。


 ドアがわずかに開き、レイチェル・カーターが現れた。

 Tシャツにジャケット、片手には開封済みのレッドブル。

 目元に疲れはある。だが眠気の気配はない。


「おかえりなさい、ウガジンさん」


 声も、顔つきも、平時と変わらない。

 だが、その奥にごくわずかな迎え火が灯っていた。

 軍人同士だけが持つ“了解”の色。


「……問題は」

「ありません。子どもたちも無事。

 監視機器も全稼働中。

 映像と音声、通信も異常なし」


 レイチェルはスマホを軽く持ち上げる。

 画面には複数のクラブ内部映像と、並ぶ音声波形。

 淡々と、それでいて確実な報告だった。


「バックアップも取ってます。あとで確認を」

「……助かる」


 ジョージは無言で靴を脱ぐ。

 動きは無駄がない。だがレイチェルは、見逃さなかった。


 1歩。

 わずかに膝が遅れた。


 その瞬間、彼女は見抜いた。


 ――これは、限界の手前だ。


 だが言葉にはせず、リビングへ先に進む。


「子どもたちは?」


「異常はありませんでした。

 リリーちゃんは20時ごろに落ちて、ジェシカちゃんは22時半まで粘ってました」


「……そうか」


「今日の送迎は代わります。

 ゲストルーム、使ってください。

 無理が効く人なのは分かってます。

 でも、効くのと通すのは別です」


 命令ではない。ただの提案だった。

 しかしそこには、元衛生兵の目と、兵士の見極めがあった。


 ジョージは黙ったまま立ち尽くす。


 普段なら、断っている。

 これは自分の仕事だ。

 人に任せるものじゃない。

 だが――


 頭が鈍い。視界が浅い。判断が遅れる。

 それはすなわち、“穴”になる。


 無理を通せば、躓くのは自分じゃない。

 ナンシーかもしれない。

 子どもたちかもしれない。


 沈黙の末、ジョージはポケットに手を入れた。

 リッジラインのキーを取り出し、無言で差し出す。


「……悪い。頼む」


 それは、妥協だった。

 だが同時に、生存のための合理だった。


「了解」


 レイチェルは短くうなずき、背を向ける。

 ジョージはその場にしばらく立ち、廊下を見つめた。


 足が、重い。

 肉体の疲労とは別の、もっと深い沈み。


 ──ジョニー・ウー。


 数時間だけまとった“別人の皮”。

 陽気で、下品で、派手な成金。

 冗談を飛ばし、女を侍らせ、札束をばらまいた。


 ――それだけのことが、骨の髄まで堪えた。


(……もし、あれがチャットの“素”なら……

 あいつは化け物だ)


 少しだけ、羨ましいと思った。

 堂々と、他人の顔で生きていける強さ。

 自分にはない。持たないと決めた。


 肩が、わずかに痛んだ。

 気づかぬうちに力が入っていた。


 息を吐き、足を一歩。

 ゲストルームの扉を押し、静かに消える。


 そこには、言葉も感情もなかった。

 ただ“必要”だけが、彼を動かしていた。

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