モーテルでシャワーを浴び、チャットと別れたのは深夜だった。
そのまま走り続けて、ナンシーの家に着いたのは、東の空がかすかに染まりはじめた頃。
夜と朝の境目。空気は冷え、肌に薄くまとわりつく。
ジョージはリッジラインを静かに降り、ドアを指先で押し戻す。音はほとんど出なかった。
クラブでの作戦は成功。
だが、張り詰めた神経のあとに残るのは、沈黙と重さだけだった。
足音を殺して玄関前に立つ。
――そのとき。
ドアがわずかに開き、レイチェル・カーターが現れた。
Tシャツにジャケット、片手には開封済みのレッドブル。
目元に疲れはある。だが眠気の気配はない。
「おかえりなさい、ウガジンさん」
声も、顔つきも、平時と変わらない。
だが、その奥にごくわずかな迎え火が灯っていた。
軍人同士だけが持つ“了解”の色。
「……問題は」
「ありません。子どもたちも無事。
監視機器も全稼働中。
映像と音声、通信も異常なし」
レイチェルはスマホを軽く持ち上げる。
画面には複数のクラブ内部映像と、並ぶ音声波形。
淡々と、それでいて確実な報告だった。
「バックアップも取ってます。あとで確認を」
「……助かる」
ジョージは無言で靴を脱ぐ。
動きは無駄がない。だがレイチェルは、見逃さなかった。
1歩。
わずかに膝が遅れた。
その瞬間、彼女は見抜いた。
――これは、限界の手前だ。
だが言葉にはせず、リビングへ先に進む。
「子どもたちは?」
「異常はありませんでした。
リリーちゃんは20時ごろに落ちて、ジェシカちゃんは22時半まで粘ってました」
「……そうか」
「今日の送迎は代わります。
ゲストルーム、使ってください。
無理が効く人なのは分かってます。
でも、効くのと通すのは別です」
命令ではない。ただの提案だった。
しかしそこには、元衛生兵の目と、兵士の見極めがあった。
ジョージは黙ったまま立ち尽くす。
普段なら、断っている。
これは自分の仕事だ。
人に任せるものじゃない。
だが――
頭が鈍い。視界が浅い。判断が遅れる。
それはすなわち、“穴”になる。
無理を通せば、躓くのは自分じゃない。
ナンシーかもしれない。
子どもたちかもしれない。
沈黙の末、ジョージはポケットに手を入れた。
リッジラインのキーを取り出し、無言で差し出す。
「……悪い。頼む」
それは、妥協だった。
だが同時に、生存のための合理だった。
「了解」
レイチェルは短くうなずき、背を向ける。
ジョージはその場にしばらく立ち、廊下を見つめた。
足が、重い。
肉体の疲労とは別の、もっと深い沈み。
──ジョニー・ウー。
数時間だけまとった“別人の皮”。
陽気で、下品で、派手な成金。
冗談を飛ばし、女を侍らせ、札束をばらまいた。
――それだけのことが、骨の髄まで堪えた。
(……もし、あれがチャットの“素”なら……
あいつは化け物だ)
少しだけ、羨ましいと思った。
堂々と、他人の顔で生きていける強さ。
自分にはない。持たないと決めた。
肩が、わずかに痛んだ。
気づかぬうちに力が入っていた。
息を吐き、足を一歩。
ゲストルームの扉を押し、静かに消える。
そこには、言葉も感情もなかった。
ただ“必要”だけが、彼を動かしていた。