正社員としての新しい生活が始まって数ヶ月が経った。最初は不安もあったが、職場の人間関係にも少しずつ慣れ、定時に帰れることのありがたさをかみしめながら、私は毎日を丁寧に過ごしていた。
帰宅すると、優斗さんが簡単な夕飯を作って待っていてくれることもあった。ふたりでご飯を食べながら、今日あったことをぽつりぽつりと話し合う。そんな日常の中に、私は確かに“幸せ”を見つけていた。
でも、心のどこかにはいつも、あの人──陳念さんの存在があった。
「あなたに、会わせたかったな……」
そう呟いた夜もあった。
今の私は、あなたが言ってくれた“自分らしさ”を少しずつ、取り戻しつつあるよ。
それでも、時々ふと、あなたがいない現実に胸が苦しくなることもある。
でも──
私は、陳念さんとの“約束”を覚えている。
「あなたは、あなたらしく」
「転んでもいい。立ち止まったっていい。再び立ち上がって、また歩き出すのです。」
私は、生きることを、幸せになることを、自ら放棄しないと決めた。
それが、私に優しくしてくれた陳念さんへの恩返しであり、かつて私を苦しめた場所や人たちへの、ささやかな“復讐”なのだ。
───私は、幸せになる。
心から笑える人生を、自分の手で掴み取る。
それこそが、私にとっての「復讐」。
不幸の上に立つ復讐ではなく、“幸せになった私を見せつける”ことで果たされる、静かで確かな復讐だ。
「陳念さん、見ていてくださいね。私はあなたが願ったように、ちゃんと前を向いて歩いています。」
優斗さんの寝息を聞きながら、私は目を閉じた。
まだ未来はどうなるか分からない。だけど私はもう一人じゃない。
そして、どんな過去を抱えていても、人は新しく始められる。そう信じられる自分になっていた。
それは、梅雨が明けたばかりの、少し蒸し暑い夏の夜だった。
その日、優斗さんと私は、ふたりの思い出の場所でもある小さなイタリアンレストランで、久しぶりにディナーの約束をしていた。店内はキャンドルの灯りが揺れ、心地よいジャズが流れていた。
「ここのカルボナーラ、やっぱり美味しいね」
「ほんと、最初に来たときより味が深くなった気がする」
そんな何気ない会話を交わしながら、デザートのティラミスを食べ終えた頃だった。
優斗さんが、少しだけ深呼吸をしてから、私の手をそっと握った。
「……ずっと考えてたことがあるんだ」
「うん?」
「転職して、こっちに引っ越してきて、君と過ごす日々が、僕にとってどれだけ幸せかってこと」
いつになく真剣な表情に、私は自然と背筋を正した。
優斗さんは、小さな黒い箱を取り出した。
そして、椅子から静かに立ち上がり、その場でひざまずいた。
「君と出会えて、本当によかった。
笑ってる君も、泣いてる君も、全部まるごと大切にしたい。
これからの人生を、君と一緒に歩いていきたいです。──結婚してください」
一瞬、時が止まったように感じた。
胸が熱くなって、言葉がうまく出てこなかったけれど、私はうなずいた。
何度も何度も、うなずいた。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
優斗さんの目にも、涙が浮かんでいた。私の手に、指輪をそっとはめてくれる。シンプルだけれど、温かみのあるデザインだった。
店内の他のお客さんから、ささやかな拍手が起こる。
でも、私の耳には、その音も遠く感じた。
ただ、目の前の優斗さんの笑顔と、「幸せになっていいんだよ」という陳念さんの声が、心の奥で響いていた。
──ありがとう、陳念さん。
私、ようやくここまで来ました。
──幸せになる。必ず。