それは、梅雨が明けたばかりの、少し蒸し暑い夏の夜だった。
その日、優斗さんと私は、ふたりの思い出の場所でもある小さなイタリアンレストランで、久しぶりにディナーの約束をしていた。店内はキャンドルの灯りが揺れ、心地よいジャズが流れていた。
「ここのカルボナーラ、やっぱり美味しいね」
「ほんと、最初に来たときより味が深くなった気がする」
そんな何気ない会話を交わしながら、デザートのティラミスを食べ終えた頃だった。
優斗さんが、少しだけ深呼吸をしてから、私の手をそっと握った。
「……ずっと考えてたことがあるんだ」
「うん?」
「転職して、こっちに引っ越してきて、君と過ごす日々が、僕にとってどれだけ幸せかってこと」
いつになく真剣な表情に、私は自然と背筋を正した。
優斗さんは、小さな黒い箱を取り出した。
そして、椅子から静かに立ち上がり、その場でひざまずいた。
「君と出会えて、本当によかった。
笑ってる君も、泣いてる君も、全部まるごと大切にしたい。これからの人生を、君と一緒に歩いていきたいです。──結婚してください」
一瞬、時が止まったように感じた。
胸が熱くなって、言葉がうまく出てこなかったけれど、私はうなずいた。
何度も何度も、うなずいた。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
優斗さんの目にも、涙が浮かんでいた。私の手に、指輪をそっとはめてくれる。シンプルだけれど、温かみのあるデザインだった。
店内の他のお客さんから、ささやかな拍手が起こる。
でも、私の耳には、その音も遠く感じた。
ただ、目の前の優斗さんの笑顔と、「幸せになっていいんだよ」という陳念さんの声が、心の奥で響いていた。
──ありがとう、陳念さん。
私、ようやくここまで来ました。
プロポーズのあと、私はしばらくの間、指輪を見つめて過ごしていた。嬉しいはずなのに、心のどこかに、ずっと引っかかるものがあった。
──親に、どう報告しようか。
私は両親の前で、ずっと「いい子」でいようとしてきた。怒らせないように、反論しないように、愛されるように。それでもいつも、「お前なんかが」とか、「恥をかかせるな」とか、冷たい言葉を浴びせられてばかりだった。成人して家を出てからも、帰省するたびに傷つけられ、いつの間にか心を閉ざすようになった。
けれど、私はもう「親に認めてもらうこと」に人生を費やしたくはなかった。
──これは、私の人生だ。私が、私の意思で選んだ人と、生きていく。
そう決めた私は、電話で結婚の報告をした。
「そう。まあ、勝手にしなさい。でも親として恥ずかしいことはしないでよね。」
母の冷たい声は、想像通りだった。でも、不思議と前ほど心は乱れなかった。
その夜、優斗さんにその話をした。
「そっか…辛かったね。でも、あなたが誰よりも頑張ってきたこと、俺はちゃんと見てる。家族は血だけじゃない。これからは、俺があなたの味方になるよ。」
その言葉に、胸が熱くなった。
私たちは、二人で結婚式の準備を始めた。親は出席しなかったけれど、それでも、祝福してくれる友人たちと、優斗さんの家族が笑顔で集まってくれた。
式のあと、私はひとり、空を見上げた。
──陳念さん。私は今、幸せです。あなたが教えてくれた言葉を胸に、私はようやく「家族」と呼べる存在に出会えました。
そして私は、そっと手を胸に当てる。
「私、ちゃんと“復讐”します。だって、こんなに幸せですから。」