桜のつぼみが膨らみ始めた三月の午後、私は洗濯物を干しながらふと立ち止まった。
「あれ……?」
いつもなら何ともない階段の上り下りが、今日はやけに息切れする。そして、なんとなく胸がむかつく。
「疲れてるのかな……」
優斗が帰宅したとき、私は台所で夕食の準備をしていた。
「お疲れさま。今日はどうだった?」
「うん、普通かな。君こそ、なんだか顔色が良くないけど大丈夫?」
「ちょっと疲れてるだけよ。心配しないで。」
でも、その夜もなんとなく体調がすぐれなかった。翌朝、生理予定日を過ぎていることに気がついた私は、ドラッグストアに向かった。
「妊娠検査薬を……一つください」
レジの店員さんに聞こえないよう、小さな声で呟いた。
自宅のトイレで検査薬を手に取ったとき、手が震えていた。
「まさか、そんなはずは……」
でも、結果は明確だった。薄いピンクの線が、はっきりと現れた。
「嘘……」
膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。
「命が……ここにある。」
優斗に話すタイミングを計りかねて、三日が過ぎた。
その日の夕食は、優斗の好きなハンバーグを作った。いつもより手の込んだ付け合わせに、サラダ、スープ。
「今日は豪華だね。何かお祝い事でも?」
「……優斗」
「うん?」
フォークを持つ手が止まった。胸が早鐘を打っている。
「私……赤ちゃんができたの。」
優斗の目が見開かれた。フォークが皿に落ちて、カチャンと音を立てた。
「……本当に?」
「うん。検査薬で確認したの。病院にも行って、確定診断をもらった。」
しばらくの沈黙のあと、優斗は立ち上がって私の前に膝をついた。
「……ありがとう。」
涙ぐんだ目で私を見上げながら、彼は震え声で続けた。
「僕たちのところに来てくれて、本当にありがとう。」
そして、そっと私を抱きしめた。その腕の中で、私は初めて母になる実感が湧いてきた。
「怖いよ、優斗。ちゃんと母親になれるかな……」
「大丈夫。僕たち二人で、この子を守っていこう。」
妊娠四ヶ月を過ぎた頃、つわりもおさまり、お腹が少しずつ膨らんできた。
鏡の前で横向きに立ち、小さなふくらみに手を当てた。
「こんにちは、赤ちゃん。お母さんだよ。」
でも、同時に心の奥で暗い感情が蠢いていた。
──私みたいになりたくない。
──あの頃の私のように、親に否定されて、価値を奪われて育つ子にだけはしたくない。
母の冷たい言葉が蘇る。
『あなたは本当に出来の悪い子ね』
『なんでそんなこともできないの』
『恥ずかしい子だわ』
「……違う」
お腹を撫でながら、私は小さく呟いた。
「あなたは、どんなあなたでも、お母さんの宝物よ。失敗しても、泣いても、怒っても。あなたはそのままで完璧なの。」
その夜、優斗と二人でベビー用品を見に行った。
「これ、可愛いね」
小さな靴下を手に取りながら、優斗が微笑んだ。
「こんなに小さいのね……本当に人間が入るのかしら」
「入るよ。僕たちもこんなに小さかったんだ。」
そのとき、ふと思った。この子を守るためには、私自身が過去と決別しなければならない。
母のような親にはなりたくない。でも、それ以上に、母に支配され続ける私でいたくない。
臨月を迎えた八月の終わり、予想通り母から電話がかかってきた。
「もうすぐ産まれるんでしょ。里帰り出産はしないの?」
声に棘があった。いつもの、私を責める口調。
「しないつもりです。」
「あら、そう。まあ、どうせ里帰り出産もしないんでしょうね。私は知らないからね。産まれても連絡しなくていいわ。どうせ遠い土地で、知らない人たちに囲まれて産むんでしょ。」
以前なら、その言葉に深く傷ついただろう。罪悪感に押し潰されそうになっただろう。
でも今は違った。
お腹の中で赤ちゃんが動いている。この子を守らなければならない。
「……うん、大丈夫。私には、優斗がいるから。家族がいるから。」
「家族ですって?結婚したばかりの夫婦が何を……」
「お母さん」
母の言葉を遮った。
「私は、この子を愛します。無条件に、ありのままを受け入れて愛します。お母さんが私にしてくれなかったことを、この子にはしてあげる。」
電話の向こうで、母が息を呑む音が聞こえた。
「だから、もうお母さんの承認は必要ありません。さようなら。」
電話を切ったとき、まるで一枚皮が剥がれ落ちたように、心が軽くなった。
九月の朝、陣痛が始まった。
「優斗!」
「大丈夫、落ち着いて。病院に連絡するから。」
優斗の手を握りしめながら、私は深呼吸を繰り返した。
病院では、看護師さんが優しく励ましてくれた。
「初産婦さんですね。頑張って。赤ちゃんも頑張ってますよ。」
陣痛の波が押し寄せるたび、私は心の中で赤ちゃんに話しかけた。
「一緒に頑張ろうね。もうすぐ会えるからね。」
そして午後三時、一つの命がこの世界に誕生した。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ。」
助産師さんが小さな命を私の胸に置いてくれた。
「……ようこそ。」
涙で霞む視界の中で、赤ちゃんは小さな手を握りしめていた。
「あなたが、私たちの宝物だよ。」
優斗も涙を流しながら、そっと赤ちゃんの頬に触れた。
「ありがとう。来てくれて、本当にありがとう。」
小さな命を胸に抱きながら、私は確かに感じた。
「私」は、ようやく過去の自分を乗り越えたのだと。
赤ちゃんが生まれて一週間後、退院の日。
「お名前は決まりましたか?」
と看護師さんが尋ねた。
「
「素敵なお名前ですね。」
希美を抱いて病院を出るとき、秋の風が頬を撫でた。
「希美ちゃん、これからよろしくお願いします。」
優斗が運転する車の中で、私は窓の外希美を眺めた。
同じ空の下に母がいる。でも、もう母の影に怯える必要はない。
"復讐"はまだ終わらない。だけど、もう"過去"に支配されない。
"幸せになること"こそが、私の戦い方。
「私」は、母になった。
これからは、希美と一緒に紡いでいく物語。
自分自身の命を引き継ぐ、"未来"との物語が始まる。
希美の小さな寝息を聞きながら、私は静かに微笑んだ。
「お帰りなさい、私たちの家族に。」