春の風がまだ少し冷たい朝、子どもは初めての保育園へと向かっていた。
「がんばってね」
と優しく声をかけても、子どもは不安そうに私の腕にしがみつく。
「大丈夫、大丈夫」
と言い聞かせるように背中をトントンと叩きながら、私は自分にも言い聞かせていた。
慣らし保育が終わった翌週から、私は職場復帰した。
時短勤務だったけれど、久しぶりの社会との接点。緊張と、でもどこか嬉しい気持ちが混じっていた。
朝はバタバタと登園の準備をして出勤、昼は目まぐるしく働いて、夕方にはダッシュでお迎え。
家に帰ればご飯、洗濯、子どものお風呂。
そんな毎日の中で、私は自分がちゃんと「母」でありながらも、「私」でもあるような気がして、疲れながらも少し満ち足りていた。
けれど、ある晩。子どもを寝かしつけた後、優斗が言った。
「ねえ、君さ……そんなに無理して働かなくてもいいんじゃない?オレの収入でなんとかなるし。」
一瞬、言葉が出なかった。
「無理してるわけじゃないよ。仕事、楽しいし。……家計にも少しは足しになるし。」
「それはわかるけど、家のことも子どものことも、どうしても君の負担が増えてる気がしてさ。
保育園に預けるの、ちょっと早かったんじゃないかって、正直思ってる。」
静かに、けれど確かに、心の中で何かが揺れた。
「私、また社会とつながりたかったんだよ。ずっと家にいて、子どもとだけ向き合って……それは幸せだけど、息が詰まることもあった。
働くことで、自分が自分でいられる気がしたの。……わかってくれる?」
「わかってるよ。……でも、“母親としての君”がつらそうに見えたら、オレは止めたくなる。」
「“母親としての私”だけで、私を見ないで……。」
それ以上、何も言えなかった。
二人の間に、沈黙だけが流れた。
翌日、仕事をしながらも心がモヤモヤしていた。
“母”であることと、“私”であること。
“夫婦”であることと、“個人”であること。
一緒に生きていくって、こんなにも考え方がずれることがあるんだ。
どちらが間違っているわけではない。
でも、お互いに「正しいと思うこと」が違うだけで、こんなにもすれ違ってしまうのだ。
週末。
子どもがお昼寝している間に、私は勇気を出して優斗に話した。
「私ね、あなたに“働かなくてもいい”って言われたとき、否定された気がしたの。
子どもを預けて働くことが、悪いことみたいに思えてしまって。」
優斗は黙って聞いていた。
そして、ぽつりと言った。
「ごめん。君がそんなふうに思ってたなんて……。
オレ、子どもを一番に考えてるつもりだったけど、君のことをちゃんと見てなかった。」
「私も、あなたの“心配”をちゃんと受け止めてなかった。」
少しの沈黙のあと、二人は、そっと手を握り合った。
子育てに正解なんてない。
夫婦のかたちにも、正解なんてない。
すれ違いながらでも、対話しながら、また歩いていけばいい。
そうやって私たちは、“家族”を育てていくのだろう。
そして私は改めて思った。
幸せになること。それは、自分を犠牲にすることではなく、誰かと“分かち合う”ことなんだと。