通夜から数日後。
母から連絡があった。
「早めに遺産の手続きを進めたい」と。
父が亡くなったことで、名義変更やら税金やら、諸々の手続きが必要になったのだろう。
だが、私には父の財産にまつわる良い思い出はなかった。
思い返せば、父の家計管理はいつも母任せ。持ち家は築40年を超えてボロボロ、借金こそないものの、特別な貯金があるとも思えなかった。
母は私にこう言った。
「お父さんの遺産、あんたにも権利はあるんだからね。孫のためにも、ちゃんと受け取りなさいよ」
その言い方に、私は胸の奥がズキンと痛んだ。
まるで、金のために孫を使っているように聞こえてしまったからだ。
「……私は、相続放棄をするつもりです」
私は母にそう告げた。
相手が面食らったように一瞬沈黙した後、怒りの声が返ってくる。
「はぁ!? ふざけてるの? そうやって、家族からどんどん離れていくつもりなのね!」
違う。
私は“家族”を捨てたのではない。
私が望んだ“家族”としての関係を、母たちが与えてくれなかったのだ。
私は静かに、でもはっきりと答えた。
「違うよ。私は、新しい家族を守るために決めたの。娘に、呪いのような遺産を背負わせたくない。たとえ数万円でも、私たちにとっては不要なもの」
優斗にも相談し、彼も同じ意見だった。
「遺産って、“お金”だけじゃないもんな。そこに残ってる“感情”ごと、受け取ることになる。そんなの、いらないよ」
私と優斗、そして娘の三人分の相続放棄申述書を家庭裁判所に提出した。
形式的な手続きではあったけれど、その一枚一枚に、私の過去との決別の想いが込められていた。
あの家に残されたのは、古びた家具と、重たい沈黙、そして母の執着心だけ。
私は初めて、自分の意思で「いらない」と言えた。
それは“拒絶”ではなく、“選択”だった。
──私の娘の希美には、呪いではなく、希望を引き継がせたい。そう強く願った。