ある夜、翔太が自宅のリビングでくつろいでいると、突然アーベルの声が静寂を破った。
縁側から吹き込む秋の夜風がカーテンを軽く揺らし、テレビの前に置かれたコーヒーカップから微かに湯気が立ち上っていた。
ソファに凭れ、雑誌を手に持ったままの翔太は、その鋭い声に動きを止めた。
「裏山の敷地内に侵入者を確認しました」
眉を寄せた翔太が顔を上げると、次の瞬間、リビングのテレビ画面が切り替わり、裏山の空き地が映し出された。
アーベルが設置した監視カメラの映像だ。
以前は産業廃棄物が無造作に積み上がっていた場所だが、アーベルがそのほとんどを地下工房の資材に変えてしまったため、今はただの寂れた空き地となっていた。
草が風に揺れ、月明かりが地面に淡い影を落とし、静かな山間の夜を照らしている。
画面の端に、一台の古びたトラックが停まり、その横で二人の男が不思議そうに辺りを見回していた。
一人は20代ほどの若者で、浅黒い肌と鋭い目つきが特徴的だ。
濃い眉と短く刈った髪から、トルコ系の男だろうと翔太は推測した。
もう一人は、見覚えのある中年男――近藤だ。
翔太が以前勤めていた会社の上司で、パワハラまがいの扱いを繰り返し、彼を精神的に追い詰めた張本人だった。
その顔を見た瞬間、翔太の表情が険しくなり、雑誌を握る手が無意識に震えた。
「……近藤?」
近藤はかつての上司とは思えないほど卑屈な態度で、トルコ系の若者にペコペコと頭を下げながら何か指示を受けている様子だった。
会社に居座り続け、威張り散らしていたあの男が、今やこき使われる側に落ちぶれている。
薄汚れた作業着を着た近藤の背中は丸まり、かつての傲慢な態度は微塵も感じられない。
翔太はその様子を見ていると何故だか、怒りと呆れが混じり合い、喉の奥で苦いものが込み上げてきた。
近藤と若者は辺りを確認し、誰もいないことを確かめるように首を振った。
若者がトラックの運転席に近づき、荷台の操作レバーを引くと、ガタンという鈍い音とともに荷台が傾き、大量のコンクリート片や金属スクラップが地面に投棄され始めた。
おそらくどこかの工事現場で解体された建物の破片だろう。
崩れたコンクリートの角が地面にぶつかり、埃が舞い上がり、月光に照らされたゴミの山が空き地に広がっていく。
金属片が地面に落ちるたび、カランカランと不快な音が響き、静かな夜を汚した。
荷台が元の位置に戻ると、若者の低い声で指示を受けた近藤がトラックに登り、残ったゴミを手作業で投げ捨て始めた。
汗だくの顔でコンクリート片を放り投げ、息を切らしながら作業する姿は、かつての威圧的な態度とはかけ離れていた。
額の汗が月光に光り、疲れ果てた表情が画面に映し出される。
翔太の拳がさらに強く握られ、震えが止まらない。
「……何やってんだ、あいつ」
怒りをこらえながら、翔太はアーベルに目を向けた。
黒猫の姿でソファの背に座るアーベルは、エメラルドの瞳を静かに光らせ、まるで事態を冷静に観察しているようだった。
「アーベル、音声も録れてるか?」
「もちろんです。不法投棄の証拠映像として十分なデータが揃いました」
テレビ画面の下部に音声波形がリアルタイムで表示され、近藤の荒い息遣いや若者の低い指示する声が小さく流れ始めた。
『早くしろ、近藤。誰もいないんだからさっさと終わらせろ』
若者の声には苛立ちが混じり、近藤の「はい、はい」と繰り返す弱々しい返事がそれに続く。
翔太は深く息を吐き、頭を冷やそうと目を閉じた。
一度冷静になる必要がある。
感情に任せて動く前に、まずは司法に頼り、問題の解決を図るべきだ。
アーベルの撮影した映像を証拠として提示すれば、警察が動いてくれるはずだ。
だが、胸の奥で燻る苛立ちは抑えきれず、彼はぽつりと呟いた。
「……でも、この苛立ちはなんともし難いな」
その言葉を聞き逃さなかったのか、アーベルが尻尾をゆらりと揺らしながら提案してきた。
「現地協力者保護の名目で、不法投棄を行っている犯罪組織を壊滅しましょうか?」
翔太は思わずアーベルを見つめた。
黒猫の無機質な表情に、どこか冗談めいた響きが混じっているように感じられた。
その提案の突飛さに、一瞬呆気に取られながらも口元が緩む。
「おいおい、それって地球の法律どころか、銀河連盟の憲章にも引っかかるんじゃないのか?」
アーベルはあっさりとした口調で答えた。
「解釈の違いを利用すれば、問題ありません」
「……どこの世界もそういう抜け道はあるんだな」
翔太は苦笑しつつ、ソファに凭れ直した。
アーベルの提案は一瞬魅力的に思えた。
ナノマシンでトラックを分解し、近藤たちを追い詰める光景が頭に浮かび、暗い満足感が胸をよぎる。
だが、今の時点では銀河連盟の力を借りる必要はない。
現実的な手段で対処する方が賢明だ。
彼は気持ちを切り替え、アーベルに指示を出した。
「アーベル、不法投棄している近藤達の映像と、トラックのナンバーを控えておいてくれ」
「了解しました」
アーベルが尻尾を軽く振ると、テレビ画面にトラックのナンバープレートがズームアップで映し出された。
錆びたプレートに刻まれた数字と文字が鮮明に表示され、映像データが保存されたことを示す通知が画面にポップアップした。
それを確認した翔太はスマホを取り出し、地元の警察署の番号を検索し、通報した。
受付の警察官に状況を説明すると、「すぐに人員を向かわせます」との返答が返ってきた。
窓の外では、夜風が木々を揺らし、裏山の静けさが不法投棄の騒音と対照的なコントラストを描いていた。
ちょうどその時、スマホがブルッと震え、着信音が鳴り響いた。
画面を見ると、「南川涼子」の名前が表示されている。
翔太は少し驚き、眉をひそめた。
「……涼子?」
涼子は、翔太が以前の会社で一緒に働いていた後輩だ。
アーベルのボディ材料になる廃材を調達してくれた後も、時折メールや電話で近況を報告し合っていた。
だが、こんな夜遅くに急に連絡してくるのは珍しい。
彼は一瞬躊躇った後、電話を取った。
「もしもし?」
『先輩……いきなり電話してすみません。ちょっとお話しできたりしませんか?』
涼子の声はどこか疲れ果てた様子で、普段の明るさが影を潜めていた。
かすかに震えるそのトーンに、翔太は不穏なものを感じ、眉をさらに寄せた。
「……何かあったのか?」
電話の向こうで、涼子が一瞬ためらう気配が伝わってきた。
彼女の深呼吸する音が小さく聞こえ、緊張が張り詰めた空気が流れる。
そして、震える声で話し始めた。
「実は私、会社に居づらくなって。それで先輩に相談したくて……」
その言葉に、翔太の背筋に冷たいものが走った。
リビングの空気が一瞬重くなり、アーベルのエメラルドの瞳が静かに彼を見つめていた。
テレビの画面には、近藤が荷台から降り運転席へ戻り、若者と一緒に立ち去る姿が映し出されていた。