週末の午後、翔太の家の玄関に涼子の声が響いた。
裏山の紅葉が風に揺れ、何処からともなく聞こえる虫の音が静かな田舎の雰囲気を彩る中、彼女の明るい挨拶が穏やかな空気を破った。
「久しぶりです、先輩!」
玄関先で元気よく手を振る涼子を見て、翔太は懐かしさを感じながらドアを開けた。
ショートカットの髪にカジュアルなパーカー姿は、彼女の明るさを際立てていた。
しかし、よく見ると彼女の目の下には薄い隈があり、笑顔に疲れが滲んでいることに気づいた。
「よぉ、涼子。元気そう……でもないな」
「まぁ……色々ありまして」
涼子はため息混じりに笑い、肩を軽くすくめた。
彼女が翔太の家を訪れた理由は、電話で話した会社での愚痴を聞いてもらうこと、そして以前から興味津々だったアーベルに会うことだった。
翔太は彼女を家の中へ招き入れながら、少し心配そうな視線を向けた。
「とりあえず上がりな。コーヒーでも淹れるから」
リビングに足を踏み入れると、ソファの上で丸くなっていた黒猫姿のアーベルがゆっくりと顔を上げた。
漆黒のボディが陽光を反射し、エメラルドの瞳が静かに二人を見つめる。
アーベルは小さく「にゃあ」と鳴き、尻尾を軽く振った。
その瞬間、涼子の目が一瞬で輝いた。
「うわぁぁぁぁ!! か、可愛い……!!」
翔太の話を聞くどころか、涼子は一目散にアーベルに駆け寄り、ソファから抱き上げて頬擦りを始めた。
「まるで金属みたいな艶やかな毛皮! でも、ふわふわ! しかも喋るんですよね!? ねえねえ、喋って!」
アーベルは一瞬、翔太の方に視線を向けた。
まるで「どうしろって言うんだ?」とでも言いたげな表情だ。
翔太は諦めたように首を左右に振った。
そんな翔太の様子を見たアーベルは一瞬目を細め、静かに口を開いた。
「ようこそ、南川涼子さん。お待ちしていました」
「!!??」
涼子は目を見開き、驚きのあまり言葉を失った。
次の瞬間、さらに強くアーベルを抱きしめ、声を上げた。
「か、可愛すぎる……! 先輩、この子私にください!」
「おいおい、アーベルはペットじゃないぞ」
翔太は苦笑しながらキッチンからコーヒーを持って戻り、テーブルの向かいに座った。
涼子はアーベルを膝の上に載せたまま、目をキラキラさせながら離そうとしない。
アーベルはされるがままにじっとしているが、尻尾が微かに揺れ、どこか困惑しているように見えた。
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ひとしきりアーベルを可愛がった後、涼子はようやく落ち着き、コーヒーを手に持った。
翔太が切り出す。
「それで、どうしたんだ? 会社に居づらくなったって」
「うん……先輩」
涼子はコーヒーを一口飲んでから、顔を曇らせた。
カップをテーブルに置き、両手で包むように持つと、ポツリポツリと語り出した。
「私、正しいことをしたはずなのに」
彼女の話によると、翔太が会社を辞めた後、近藤の横領や不正行為の証拠を地道に集め、社内のコンプライアンス窓口に告発したのだという。
帳簿の改ざん、取引先への裏金、部下への不当な圧力――涼子はその全てを文書化し、正義感から行動を起こした。
結果として、近藤は解雇され、会社から刑事告発された。
しかし、その代償は大きかった。
「直接文句を言ってくる人はいないけど、なんとなく距離を置かれてるっていうか……社内での評価も下がってる気がするし、正直、辛い」
涼子は苦笑しながら肩をすくめた。
彼女の声には疲れと失望が混じり、普段の明るさが影を潜めている。
「だからさ、ちょっと鬱憤晴らしがてら、先輩に愚痴を聞いてもらおうと思って!」
翔太は黙って彼女の話を聞いていた。
テーブルの上のコーヒーが冷めていく中、彼の胸にはかつての職場への複雑な感情と、涼子の頑張りを認める気持ちが交錯していた。
その横で、アーベルが膝の上の涼子からソファに移り、尻尾を揺らしながら口を開いた。
「ならば、涼子、一緒に会社を作りましょう」
「……え?」
涼子はアーベルを撫でていた姿勢のまま、ぽかんとした。
アーベルの提案はあまりにも唐突で、彼女の頭が追いついていない様子だ。
翔太も一瞬驚いたが、アーベルは真剣な声で続けた。
「現在、私の目的のために翔太に協力していただいていますが、人手、資金、資材、そのほとんどが不足しています」
アーベルのエメラルドの瞳が涼子をじっと見つめる。
「南川涼子さん、私を手伝ってくださいませんか?」
「ちょ、ちょっと待って! いきなり何それ!?」
涼子は動揺しながらも、目を輝かせた。
アーベルの提案に驚きつつも、その可能性に心が揺れているのが分かる。
翔太も内心で驚いていたが、同時に「なるほど」と思った。
涼子は技術系の知識があり、会社の実務経験も豊富だ。
さらに、正義感と倫理観がしっかりしている。
アーベルの秘密を知っても、それを守り、共に未来を描ける信頼できる協力者になるかもしれない。
これから社会に技術を展開していく上で、彼女は大きな力になるだろう。
翔太は腕を組み、少し考えた後、ニヤリと笑った。
「……面白いかもな」
「えっ、本気ですか!?」
涼子は驚いたが、翔太の表情を見て、それが冗談ではないことを悟った。
彼女はアーベルを膝に抱き直し、目を丸くしながらも、興味が抑えきれずに身を乗り出した。
「ちょっと待って、先輩。ナノマシンのために貴金属がいる、なんか通信機を作らないといけないって事ぐらいしか、私、知らないですよ……一体、アーベルと先輩は何しようとしてるんですか?」
「まぁ、そうだな。アーベル、改めてお前から説明してくれるか?」
翔太がアーベルに視線を向けると、黒猫は尻尾を軽く振って答えた。
「私は銀河連盟への報告を目指し、高次元通信機の製造を進めています。そのため、翔太と共に小惑星プシケでの作業を計画中です。しかし、現状ではリソースが不足しており、新たな協力者が必要です」
涼子は目をぱちくりさせながら聞き、アーベルの言葉が終わる頃には口が半開きになっていた。
「……え、銀河連盟? プシケ? 何!? 何!?」
「お前が混乱するのも無理ないよな、俺だって現実味がない」
翔太は笑いながらコーヒーを飲んだ。
「簡単に言うと、アーベルは宇宙規模のプロジェクトを進めてて、俺はその手伝いをしてる。で、お前にも仲間になってほしいって話だ」
涼子はアーベルを抱きしめながら、しばらく考え込んだ。
彼女の目には驚きと戸惑いが混じっていたが、次第に好奇心と決意が浮かび始めた。
そして、思い切ったように口を開いた。
「……話、詳しく聞かせてもらっていい?」
翔太とアーベルは顔を見合わせ、二人同時に頷いた。
リビングに差し込む午後の陽光が、テーブルに温かい光を投げかけ、新たな仲間を迎える準備が静かに整いつつあった。