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2-13 故郷の希望

 翔太の家のリビングには、静寂が柔らかな毛布のように広がっていた。

 部屋の空気は穏やかで、かすかに漂うコーヒーの香りがその場に落ち着きを与えていた。

 窓の外では、裏山が夕陽に照らされ、燃えるような赤や深い橙が織りなす自然の絵画が広がっている。

 陽光はカーテンの隙間から淡いオレンジ色の帯となって差し込み、木製のフローリングに細長い影を落としていた。

 テーブルの上には、2つの白いコーヒーカップが並び、それぞれの中には飲みかけの冷めたコーヒーが静かに波紋を湛えている。

 カップの縁には薄っすらと茶色い染みが残り、時間が経過したことを物語っていた。


 ソファには翔太と涼子が腰掛け、机の上に黒猫の姿をしたアーベルが静かに佇んでいた。

 アーベルの毛並みは艶やかで、夕陽の光を受けて漆黒の毛が微かに金色に輝いている。

 エメラルド色の瞳は鋭くも穏やかで、時折小さく瞬くたびに知性が垣間見えた。

 翔太は肘をソファの背に預け、リラックスした姿勢で座っていたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。

 一方の涼子は膝に手を置き、少し緊張した面持ちでテーブル上の書類に視線を落としている。

 三人は言葉少なに、時間を共有していた。


 アーベルが提案した会社の事業内容は、二つの柱で構成されていた。

 一つは高精度かつ高強度で積層可能な金属3Dプリンターによる加工技術。

 もう一つは産業廃棄物から貴金属を精製するリサイクルシステムだ。


 翔太は最近、サキシマ重工の崎島と取引を進めていたが、その裏でアーベルは崎島と密にメールでやり取りを続けていた。

 先日、アーベルが送った10分の1サイズへ小型化したロケットエンジンの試作品を見た崎島は、その金属加工技術に目を奪われたらしい。

 届いたメールには、「この技術は革命的だ。今回のエンジン以外に、自分が設計した部品もぜひ加工してほしい」と熱のこもった文面が綴られていた。

 崎島の興奮は文章越しにも伝わり、翔太はその反応に内心で頷いていた。

 アーベルの金属3Dプリンターは、従来の技術を遥かに超える精度と耐久性を持ち合わせている。

 技術者なら誰でも喉から手が出るほど欲しがるだろう、と彼は思った。


 そしてもう一つの柱、貴金属の精製。

 アーベルが開発したリサイクルシステムは、廃棄物から金やプラチナといった貴重な金属を効率的に抽出するものだった。

 材料不足に悩む自分達にとって、これはまさに救世主とも言える技術だった。

 翔太はソファのクッションに深く凭れながら、アーベルの提案がどれほど現実を変える力を持つかを静かに考えていた。


 涼子はテーブルの上に置かれた事業計画案を手に取り、目を細めて眺めていた。

 彼女の指先が紙の端を軽く撫で、ふと考え込むように顎に手を当てた。

 その仕草には、どこか慎重さと好奇心が混じっているように見えた。

 やがて、彼女は静かに口を開いた。


「……アーベル、その装置って、金属以外の物質も分離できる?」


 アーベルは即座に反応した。

 黒猫の姿のまま、ソファの上で体をわずかに起こし、涼子をじっと見つめた。


「もちろん可能です」


 その声は低く落ち着いており、まるで人間が話しているかのような滑らかさがあった。


 涼子は少し間を置き、カップに残ったコーヒーをじっと見つめた。

 黒い液体の中で小さな気泡が浮かび上がり、彼女の視線に映る夕陽が揺れている。

 彼女は深呼吸を一つして、さらに尋ねた。


「……放射性物質も?」


 その質問に、アーベルは一瞬沈黙した。

 エメラルドの瞳が涼子を捉え、尻尾がピタリと止まる。

 その静寂は重く、リビングの空気を一変させた。

 そして、ゆっくりと頷きながらアーベルは答えた。


「はい。放射性物質の分離も可能です」


 その言葉を聞いた瞬間、涼子の表情が劇的に変わった。

 驚きと希望が混じった目でアーベルを見つめ、長い間胸に秘めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。

 彼女の唇が震え、言葉が途切れ途切れにこぼれ落ちる。


「私……小学生の頃、東日本大震災で被災したんだ」


 翔太とアーベルは黙って涼子の話を聞いていた。

 彼女の声は穏やかだったが、その裏に深い傷と強い意志が隠されているのが手に取るように分かった。

 翔太は膝に置いた手を無意識に握り、アーベルは耳を微かに動かして彼女の声に集中した。


「私の家、双葉町にあったの。あの原発のすぐ近く」


 双葉町――福島第一原子力発電所の立地する町。  

 2011年3月11日の東日本大震災とその後の原発事故により、全域が帰宅困難区域に指定され、多くの住民が故郷を失った場所だ。

 翔太は当時のニュース映像を思い出した。

 崩れた家屋、避難する人々、そして放射能汚染の恐怖に怯える住民たちの姿が脳裏に蘇り、彼の胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


「避難生活はすごく大変だった。最初は親戚の家を転々として、それから千葉に移住して……正直、もう戻れないって思ってた」


 涼子は苦笑しながら話を続けた。

 彼女の手がコーヒーカップを握る力が強まり、指先が白くなるほどだった。


「でも、兄は違った。大学を卒業してからずっと、あの町をどうにかしたいって考えてた」


 彼女の兄は、数年前に「放射性物質の除染」を目的としたベンチャー企業を立ち上げていた。

 放射線を低減する技術の研究や除染作業を行いながら、双葉町での活動を地道に続けていたのだ。

 しかし、現実は想像以上に厳しかった。


「結局、技術が追いつかなくて、思うように進んでないの」


 放射性物質を完全に取り除く確実な方法は未だ確立されておらず、開発中の技術も失敗の連続だった。

 資金提供は次第に打ち切られ、スタッフも次々と辞めていった。

 それでも兄とその妻だけは、執念とも言える情熱で作業を続けているとのことだ。


「兄の会社の敷地には、除染作業で出た放射性残土が山積みになってる。ずっと放置されてて、微量だけど放射線が出続けてるんだ」


 涼子の声が少し震え、目が潤んだ。

 彼女は唇を噛み、涙を堪えるように目を閉じた。


「兄夫婦はね、そんな場所で働いてるのに、なんとかしようとしてるのに……私は何もできなくて、ずっと悔しかった」


 リビングに重い沈黙が流れ、窓の外で風に揺れる木々の音だけが聞こえた。

 木の葉が擦れ合う乾いた音が、涼子の言葉の余韻を包み込むようだった。


---


 涼子はアーベルをじっと見つめ、深く息を吸った。

 震える手を膝の上で握りしめ、意を決したように口を開いた。


「……私の兄の会社に、その事業をやらせてほしい」


 翔太とアーベルは驚いた顔をした。

 涼子の言葉には、予想を超えた覚悟が込められていた。彼女はさらに続けた。


「それだけじゃない。放射性物質の除染もやらせてほしい」


 彼女の声は必死だった。

 目を潤ませながらも、強い意志がその瞳に宿っている。


「今のままだと、兄の会社は潰れちゃう。研究も止まる。だけど、もしアーベルの技術が使えたら、もしかしたら本当に町を取り戻せるかもしれない」


 涼子は両手を握りしめ、テーブルに身を乗り出し、頭を下げた。


「虫のいい話だってわかってます。でも……お願いします!」


 翔太は涼子の覚悟を感じ、言葉を失った。

 彼女の声に込められた故郷への想いと、兄を支えたいという気持ちが、彼の胸に深く響いた。

 アーベルもまた、黒猫の姿でじっと涼子を見つめ、尻尾の動きが止まっていた。

 彼女の言葉が部屋に重く響き、時間が一瞬止まったかのようだった。


 しばらく沈黙が続いた後――


「了承しました」


 アーベルが静かに答えた。

 その声はいつも通り冷静だが、どこか温かみが感じられた。

 黒猫の瞳が涼子に向けられ、穏やかに光っている。


「本当に!?」


 涼子は顔を上げ、目を見開いた。

 涙が頬を伝い、驚きと喜びが混じった表情が広がる。

 彼女の呼吸が荒くなり、胸が激しく上下した。


「私は涼子さんの兄の会社を利用させて頂くのです。その見返りとして放射性物質除去の技術を提供する……そういう話です」


 アーベルの言葉に、涼子は呆然とした後、目に涙を溜めながら震える声で感謝を伝えた。


「ありがとう……ありがとう……!」


 彼女の声が嗚咽に変わり、涙がポロポロとテーブルに落ちた。

 透明な雫が木目の上に広がり、夕陽の光を反射してキラリと光る。

 翔太はそっと席から離れ、箱ティッシュを取り出し、涼子に差し出した。


「……ほら、涙拭けよ」


 涼子はティッシュを受け取りながら、こぼれる涙を拭った。

 鼻をすすり、笑顔と涙が混じった表情で翔太とアーベルを見た。


「先輩……アーベル……本当にありがとう」


 リビングに温かい空気が戻り、夕陽が部屋を優しく照らした。

 涼子の中で、長年の後悔と無力感が少しずつ溶けていくようだった。

 彼女の肩が軽くなり、顔に安堵の色が浮かんだ。翔太は彼女の肩を軽く叩き、ニヤリと笑った。


「まぁ、これで俺たちも本格的に忙しくなるな」


 アーベルは尻尾を軽く振って応えた。


「効率化のため、最適な選択だっただけです」


 その言葉には、どこかユーモアが滲んでいるようにも聞こえた。


 涼子はハンカチを握りしめながら、新たな希望に胸を膨らませていた。

 窓の外では、紅葉が風に揺れ、夕陽が最後の光を投げかけていた。


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