「点火シークエンス開始」
静寂を切り裂くように、サキシマ重工の試験場にオペレーターの声が響いた。
冬の澄んだ空の下、試験架台に固定された**ハイブリッドパルスロケットエンジン(HPR)**が、観測センサーとエンジニアたちの視線に囲まれていた。
海風が試験場の防音壁を軽く叩き、遠くでカモメの鳴き声が聞こえる中、カウントダウンが始まった。
「5、4、エンジンスタート」
「3、2、1——点火」
エンジンが火を吹いた。
最初は低く唸るような音が響き、まるで獣が喉を鳴らすような重厚な振動が地面を伝った。
試験場の鋼鉄製架台が微かに震え、防音壁が軋む音が混じる。
続いて、燃焼室内の圧力が上昇するにつれ、エンジンの咆哮が増していく。
オレンジ色の炎がノズルから噴出し、熱波が空気を歪ませた。
試験場に設置されたセンサーが一斉にデータを送信し、モニター室の画面に数値が踊り始めた。
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オペレーターがモニターを見つめながら、冷静に報告する。
「燃焼圧、正常範囲内。パルスジェット動作確認……異常な共振も見られません。順調です」
エンジンの前方に設置された吸気ダクトのシャッター弁が激しく開閉し、目にも止まらぬ速さで空気を吸い込んでいく。
金属の弁がカチャカチャとリズミカルに動き、吸い込まれた大気はパルスジェットエンジンの燃焼室に送り込まれた。
連続的な爆発が繰り返され、音が次第に甲高いリズムへと変化していく。
地面に設置された振動計が微細な揺れを記録し、試験場の空気が熱と音で満たされた。
炎の色も変化した。
最初は穏やかな橙色の燃焼だったが、酸素と燃料の混合比が最適化されるにつれ、青白い光を放つ高温燃焼へと移行。
ノズルから噴き出す炎が鋭く伸び、大気中に熱の波紋を描いた。
試験場の観測席に集まったエンジニアたちが、息を呑んでその光景を見つめる。
モニター室では、翔太と涼子が画面を凝視していた。
壁一面のスクリーンには、エンジン内部の構造がリアルタイムで解析され、パルスジェットエンジンとロケットエンジンが複雑に絡み合いながら連動する様子が映し出されていた。
燃焼室の温度分布、圧力波の動き、燃料噴射のタイミング――全てが色鮮やかなグラフィックで表示され、アーベルの設計の精緻さが一目で分かった。
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「ハイブリッドパルスロケット(HPR)の真価は、大気圏内における極超音速領域の効率の良さにあります」
通信アプリを通じて、オブザーバー参加しているアーベルが説明を始めた。
翔太と涼子の耳元に装着された小型デバイスから、その冷静な声が響く。
「パルスジェットが生み出す圧力波によって、ロケット燃料の霧化効率が向上し、従来型より30%高い比推力を得ることができます」
「大気圏内では空気吸い込み式として稼働し、成層圏以上では純粋なロケットモードに移行します。そのため、酸化剤のタンクを小型化することが可能になっています。」
アーベルの言葉どおり、計器の数値が急上昇していった。
推力3000kN到達――
日本で運用されている通常の単段式ロケットエンジンを超えた。
モニター室がざわめき、エンジニアたちが隣の同僚と顔を見合わせる。
「3000kNだって?」
「こんな見た目のエンジンで?」
驚きの声が漏れている。
興奮が抑えきれていないのが伝わってきた。
「ここからです」
アーベルが静かに告げた。
「これよりロケットエンジンへ移行します」
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エンジン中央部にあるアクティブ・ダンパーが作動。
パルスジェット特有の断続的な爆発リズムと、ロケットエンジンの連続燃焼が次第に調和していく。
シャッター弁の動きが緩やかになり、吸気音が低減する一方、ロケットモードへの切り替えがスムーズに進んだ。
二つの異質な咆哮が同期し、エンジンの挙動が安定した推力へと変化する。
推力4000kN到達――!
この推力の数値は、現在運用されているロケットエンジンの中では特別目立つような数値ではない。
しかしその次に表示される比推力(大気圏内における単位重量の推進剤が生み出す推力)が異常だった。
計算されモニターに表示されるその数値は417s。
モニター室の誰もが息を呑み、静寂が広がった。崎島健吾は食い入るように画面を見つめ、拳を握りしめる。
額に汗が滲み、呼吸が荒くなっていた。
通常のロケットよりも美しく、HPRエンジンの排気炎は螺旋を描くように伸びていく。
パルスジェットの連続的な爆発が、ロケットの排気流にリズミカルなうねりを生み出し、大気中にDNA鎖のような光の軌跡を描いていた。
青白い炎が冬の空に映え、試験場の地面に淡い影を落とした。
「……美しい……」
誰かが呟き、その声が部屋に響いた。
それは単なるエンジンではなく、まるで新たな生命の鼓動のようにも見えた。
エンジニアたちの目には、科学と芸術が交錯する瞬間が映っていた。
やがて、エンジン前方のシャッター弁が完全に閉じられた。
パルスジェットエンジンは停止し、HPRエンジンは純粋なロケットモードへと移行。
推力の変動は一切なく、安定した燃焼が続いた。
「移行完了。120秒後に再度パルスジェットへ移行します」
アーベルの声が響き、再びシャッター弁が開かれた。
エンジンはスムーズにパルスジェットとロケットの混合運転へと戻り、その柔軟性が証明された。
そして、最後の段階。
オペレーターの指示で徐々に推力を落とし、エンジンが停止した。
「燃焼試験終了——成功です!」
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試験時間はわずか12分間。
しかし、その短い時間の中で、彼らは宇宙推進技術の新たな地平を切り開いた。
モニター室は、ロケットが打ち上がったかのような大歓声に包まれた。
エンジニアたちが立ち上がり、拍手と歓声が響き合い、壁が振動するほどだった。
「信じられない!」
「これが現実なのか?」
興奮した声が飛び交い、誰かが感極まって目を拭う姿も見えた。
崎島が、呆然とした表情のまま、ゆっくりと口を開いた。
「……これは、本物だ……」
その声には、驚愕と確信が混じっていた。
彼の目には、未来の可能性が映り込んでいた。
翔太と涼子は、互いに顔を見合わせ、小さくガッツポーズを交わした。
翔太の作業着には汗が滲み、涼子の頬は興奮で紅潮している。
「やったな、涼子」
「うん、先輩!」
耳元のデバイスから、アーベルの声が小さく響いた。
『おめでとうございます。ですが、これからです。更に次のステップへ進みましょう』
試験場の外では、HPRエンジンが静かに佇み、冷たい冬の風に晒されていた。
その姿は、まるで宇宙への第一歩を待つ探査機のようだった。
崎島が二人に近づき、低い声で言った。
「次は実機搭載だ。準備を怠るなよ」
翔太は頷き、涼子と共に試験場を見上げた。