サキシマ重工のロケットエンジンテストは、完璧な成功を収めた。
管制室は歓声に包まれ、壁一面のモニターに映し出されたデータがその偉業を証明していた。
推力曲線、燃焼効率、振動解析――。
全てがアーベルが提示した設計通りの完璧な結果を示した。
エンジニアたちは立ち上がり、互いに肩を叩き合い、笑顔が溢れた。
試験場の外では、HPRエンジンが静かに冷えていく中、冬の陽光がその金属表面に鈍い輝きを与え、まるで勝利の証のように佇んでいた。
関係者たちの顔には安堵と喜びが浮かび、崎島健吾さえも硬い表情を緩め、小さく頷いていた。
しかし、その興奮の渦中、一人の男が静かにモニター室を後にした。
田中健――燃料比率の調合を担当するエンジニア。
表向きはスペースY社から派遣された優秀な技術者で、試験中も冷静にデータを記録し、オペレーターに的確な指示を出していた。
眼鏡の奥の目は鋭く、試験中のHPRエンジンの挙動を一瞬たりとも見逃さなかった。
しかし、彼の真の目的は、サキシマ重工の技術を監視し、開発を遅らせることにあった。
彼の足音がモニター室の喧騒から遠ざかり、冷たいコンクリートの廊下に響く。
作業着のポケットに手を突っ込み、彼は無表情で歩を進めた。
廊下の隅に立ち止まり、田中はスマートフォンを握りしめた。
窓の外から差し込む薄い光が彼の顔に影を落とし、疲れた目元が一瞬だけ映る。
眼鏡のレンズに反射した光が揺れ、彼の表情に微かな緊張が走った。
彼は深呼吸し、低い声で報告を始めた。
「Director、サキシマ重工でのエンジンテストが成功しました。このままでは我が社に続く帰還型ロケットの開発に成功する可能性があります」
電話の向こうから、冷ややかな声が返ってきた。
抑揚のないトーンには、どこか機械的な冷酷さが漂い、言葉の端々に嘲りが潜んでいる。
「田中、それは良かったじゃないか……君に仕事ができた。前回も上手くやった。今回も君なら大丈夫だろう。まだ、宇宙は我々の独占事業でなくてはならない」
田中は一瞬、唇を噛んだ。
目の前に広がるサキシマ重工の敷地を見やり、試験場の遠くで小さく見えるHPRエンジンが視界に入る。
その美しいフォルムと、試験中に放った青白い炎が脳裏をよぎった。
彼の胸には複雑な感情が渦巻いていた――技術者としての誇り、HPRエンジンの革新性に心を奪われた瞬間、そして裏切りの罪悪感が交錯する。
彼の手がスマートフォンを握る力が強まり、指先が白くなった。
しかし、感情を押し殺し、淡々と答えた。
「……承知しました」
「なに、戻ってきたら君もManagerだ。私もCIO(最高情報責任者)に成れるだろう。報酬も期待しておいてくれたまえ」
Directorの声には薄ら笑いが混じり、満足げな息遣いが聞こえた。
通話が切れると同時に、静寂が田中を包んだ。
彼はため息をつき、スマートフォンをポケットにしまった。
冷たい風が廊下の窓から吹き込み、コートの裾を揺らし、彼の頬を冷たく撫でた。
一瞬立ち尽くし、遠くの試験場を見つめた後、再びモニター室へと足を進めた。
表情には何も残っておらず、ただ任務を遂行する機械のような無機質さが漂っていた。
眼鏡の奥の目は虚ろで、技術者としての情熱が押し潰された後の残骸だけが残っているようだった。
その様子を、監視カメラ越しにアーベルが見つめていた。
---
試験場の駐車場に停めたトラックの助手席で、黒猫の姿のアーベルが静かに宇宙へと続く空を見上げていた。
冬の青空は澄み切り、遠くの雲がゆっくりと流れ、水平線に溶け込んでいく。
アーベルのエメラルドの瞳には、田中の行動が映し出された監視映像が投影され、微細なデータの流れがその視界を埋めていた。
音声解析、行動パターン、通信内容――全てがナノマシンのネットワークを通じて瞬時に処理され、彼の意図が明確に浮かび上がる。
「宇宙は、誰のものでもない。だが、正しい者たちの手で開拓されなくてはならない」
アーベルの呟きは、トラックの中の静かな空気に溶け込んだ。
その声には、哲学的な響きと揺るぎない決意が込められ、銀河連盟の憲章を背負った存在としての重みが感じられた。
田中の通話を解析し、彼がスペースY社のスパイであることを把握したアーベルは、翔太と涼子にはまだこの事実を伝えていない。
彼らが試験の成功に浸り、純粋な喜びを味わう時間を奪いたくなかったのだ。
トラックの窓から見える試験場では、エンジニアたちがHPRエンジンを囲み、興奮冷めやらぬ様子で話し合っている。
崎島がメモ帳に何かを書き込み、時折エンジンを見上げては頷く。
その横顔には技術者としての好奇心と満足感が浮かんでいた。
翔太と涼子は試験場の端で缶コーヒーを手に立ち話をし、笑顔が絶えない。
「次は宇宙だね!」
涼子が明るく言う。
「まだ気が早いだろ」
翔太が苦笑しながら返す。
その無垢なやり取りが、アーベルの視界に映り込んだ。
田中の裏切りは、サキシマ重工のプロジェクトに新たな障害をもたらす可能性があった。
スペースY社が妨害を具体化すれば、HPRエンジンの搭載や打ち上げ計画が中止されるかもしれない。
アーベルは静かに計算を重ね、対策を練り始めた。
ナノマシンのネットワークが微かに光を帯び、田中の行動予測、スペースY社の動向分析、今後の影響をシミュレーションする。
可能性の分岐が無数に広がり、その中から最適な道を選び出す作業が進行していた。
助手席のシートに丸まったアーベルは、尻尾を軽く振った。
「この干渉は問題ないと判断します」
その言葉は誰にも聞こえず、冬の風に運ばれて消えた。
試験場の喧騒と、宇宙への夢が交錯する中、新たな戦いが静かに始まろうとしていた。
アーベルの瞳には、遠くの星々が映り込み、地球の未来を見据える視線が揺るがなかった。
翔太と涼子の笑い声が遠くに響く中、アーベルは次の手を準備し始めた――。