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3-7 猫の悪戯

 夜の静寂を破るように、インターホンが甲高く鳴り響いた。

 時刻は午後11時を過ぎ、辺りは冷たい闇に沈んでいた。

 窓の外では、遠くの電灯が薄ぼんやりと光り、風に揺れる木々の影が壁に不気味な模様を描いていた。

 翔太はソファに腰掛け、テレビのニュースで流れる除染技術の特集をぼんやり眺めていたが、その音に思わず身を起こした。


 玄関のモニターに映る男の顔を見て、彼は眉をひそめた。

 そこに映っていたのは、かつての上司であり、今や違法解体業者として警察に追われているはずの近藤だった。

 薄汚れた革ジャンの襟を立て、くわえたタバコの火が赤く瞬き、脂ぎった髪が額に張り付いている。

 モニター越しでも、その狡猾な目つきが不快感を誘った。


 翔太は不機嫌そうに立ち上がり、ドアの鍵を外して開けた。

 冷たい夜風が室内に流れ込み、埃っぽい匂いとともに近藤のタバコの臭いが鼻をついた。


「よぉ、翔太。久しぶりだな」


 近藤は悪びれもせずニヤリと笑い、歯の隙間に挟まった黄ばんだ歯を見せた。


「……近藤さん、何の用ですか?」


 翔太の声には抑えた苛立ちが滲み、目を細めて睨みつけた。

 近藤からはかつての職場で散々迷惑を受けていた。

 起こしたトラブルの謝罪、雑務の残業。

 翔太の脳裏に苦い記憶として蘇った。


「何の用もクソもあるかよ。お前、新聞に載ってたじゃねえか」


 近藤はポケットから折りたたんだ新聞を取り出し、乱暴に広げて翔太の目の前に突きつけた。

 紙面には太字の見出しが躍っていた——**『除染技術の新たな革命──南川研究所の快挙』**。

 写真には、発表会の壇上に立つ南川仁の凛とした姿と、その横でサポートに徹する翔太の緊張した表情が鮮明に映っていた。

 フラッシュに照らされた二人の姿が、成功の象徴として切り取られていた。


「お前、退職してからえらく羽振りがいいみたいじゃねえか」


 近藤の目が嫌らしく光り、口角が歪んだ。


「……まさか金をせびりに来たんじゃないですよね?」


 翔太の声に冷ややかな怒りが混じった。

 近藤はふてぶてしく笑いながら、靴を脱がずに室内に踏み込んだ。

 翔太はその動きを遮るように立ち塞がったが、近藤は肩でそれを押し退け、リビングへとずかずかと入り込んだ。

 まるで物色するかのように部屋を見渡し、机の上や棚の隅に目を走らせた。

 しかし、金目のものが見つからないことに気づくと、苛立たしげに舌打ちし、顔を歪めた。


「そのまさかよ。少しばかり貸してくれよ。いや、貸してくれじゃねえな、成功者として困ってる昔の仲間を助けるってやつだろ?」


 その厚かましさに、翔太のこめかみに血管が浮かんだ。


「……帰ってください。俺にあんたを助ける義理はない」


 翔太は声は低く、抑えた怒りが震えていた。


「なんだよ、それ。冷たいなぁ」


 近藤は鼻で笑い、顎を突き出して挑発するように見つめた。


「冷たいも何も、俺はあんたに何も借りがない。むしろ、迷惑をかけられた側ですよ」


 その言葉に、近藤の目が一瞬鋭く光った。


「へぇ……そんなこと言っていいのか?」


 彼の声が低くなり、嫌な予感が翔太の背筋を這った。


「お前、ここで働いてるってことは、色々と機密情報とか持ってんじゃねえの? 双葉町の会社で働いているはずのやつが千葉の片田舎にいるってのはだいぶ不自然だ。企業の裏側ってのは、案外、興味を持つやつが多いんだぜ?」


 近藤の目が妖しく輝き、脅しとも取れる言葉を吐いた。


「脅しのつもりですか?」


 翔太は眉を上げ、呆れたように溜息をついた。

 ドアを開けたまま腕を組み、冷たく言い放つ。


 「なら、もう帰ってください」


 近藤は舌打ちし、「チッ……ケチな野郎だな」と吐き捨てると、肩をすくめて玄関を出ていった。


 革靴の足音が階段を下り、遠ざかっていく。


 だが、その直後——翔太の背後で異変に気づいた。

 部屋の片隅にある机の上、USBメモリを置いていたはずの場所が妙に散らかっている。

 書類が乱れ、ペンが転がり、コーヒーカップが倒れて冷めた液体が染みを広げていた。


「……何?」


 ハッとして、翔太は慌てて机に駆け寄り、手を伸ばして探した。


「……嘘だろ」


 USBが、ない。 

 さっきまで確かにそこにあったはずの量産用にディチューンした除染装置の設計データが入ったUSBが、どこにも見当たらなかった。

 冷や汗が背中を伝い、心臓が早鐘を打った。

 近藤が部屋に入り込んだ僅かな時間——その間に盗まれたのだ。


「やられた……!」



---



「落ち着いてください、翔太さん」


 すぐさま近藤を追おうとした翔太の背後から穏やかな声が響いた。

 振り返ると、そこにはテーブルの上でゆったりと座り込むアーベルの姿があった。

 猫のような姿をした宇宙船のコアは、漆黒の毛並みを月明かりに輝かせ、優雅に尻尾を揺らしていた。

 エメラルド色の瞳が妖しく光り、ほんのわずかに口元が歪んでいる。

 それはまるで、悪巧みを思いついたときの表情のようだった。


「こんな時に何を悠長に——!」


 翔太は声を荒げたが、アーベルは動じず、長い尻尾を軽く叩いて制した。


「……良い解決策があります」


 その瞳が一層輝き、翔太は背筋に悪寒を感じた。


「……まさか、何かするつもりか?」


 アーベルの口元が微かに吊り上がり、小さくクスクスと笑った。


「少し、いたずらをしてみましょう」


 その声は甘く、どこか不気味な響きを帯びていた。


「USBの情報はすでに私のデータベースにバックアップがあります」


 その言葉に、翔太は一瞬安堵したが、すぐに眉をひそめた。


「それは助かるけど……」


「そして、今近藤が持っているUSBのデータを『少しだけ』書き換えましょう。彼がデータを確認するため、ネットワークに繋がる端末にUSBを挿せば、そこへこちらからアクセスします」


 アーベルの声は冷静で、どこか楽しげだった。


「書き換える……?」


 翔太が戸惑うと、アーベルはふっと鼻を鳴らした。


「ええ。表面上は本物の設計データと寸分違わぬように見せかけて、しかし、実際には無意味な構造で埋め尽くされ、まともに動かせば破綻するものです」


 その言葉に、翔太は目を丸くした。


「……それって、どうなるんだ?」


「近藤がそのデータを誰かに売ろうとしたとしても、買った企業は実際に動かした瞬間に大損害を被ることになります」


 アーベルは目を細め、まるで獲物を弄ぶ猫のように微笑んだ。


「それに、こういった企業は裏社会と繋がりがあることが多い。もし大金を投じて手に入れたデータが役に立たないと知ったら、どうなるでしょうね?」


 翔太は想像してゾッとした。

 裏社会の人間が絡めば、近藤のような小悪党は簡単に切り捨てられるだろう。

 闇の中で消されるか、あるいはもっと酷い目に遭うかもしれない。


「……随分と怖いこと考えるな」


 翔太の声が震えたが、アーベルは平然と答えた。


「私はただの防衛策を講じているだけですよ。最近、あの研究所の周りをうろつく不審者が増えていましたしね……ちょっとばかり見せしめが必要かと」


 その口元がさらに吊り上がり、猫が爪を隠したまま獲物を見つめるような笑みに近かった。


「では、しばらく様子を見ましょうか」


 アーベルは優雅にテーブルから飛び降りた。

 翔太は内心複雑な気持ちを抱えながら、静かに頷いた。

 窓の外では、冷たい風が木々を揺らし、遠くで犬の遠吠えが響いていた。


(……近藤、あんた、地獄を見るぞ。)


 翔太の胸に、怒りと不安、そして微かな期待が混じり合った。


 やがて、近藤の持ち去った**『偽の設計データ』**が、思わぬ波紋を引き起こすことになるとは——このとき、誰も知らなかった。

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