冷え込みの厳しい夜だった。
翔太が受け継いだ祖父の家は築年数が古く、エアコンがフル稼働しているにもかかわらず、なかなか部屋は暖まらない。
それどころか、**ブオオオオ……**という動作音がやたらと響き、壁の隙間から冷気が忍び込んでくる。
窓ガラスには霜が薄く張り、縁側の外では枯れた木々が風に揺れてカサカサと音を立てていた。
「……全然暖かくならない。やっぱり家が古いからかなぁ」
翔太はエアコンを睨みながらぼやき、ソファに凭れて首を振った。
部屋着の上に厚手のフリースを羽織っているが、それでも肩が冷える。
その隣で、黒猫のアーベルが堂々と座り、尻尾をゆっくりと揺らしている。
エメラルドの瞳が部屋の薄暗い光を反射し、穏やかな雰囲気を漂わせている。
「それは由々しき問題ですね。いずれなんとかしましょう。ですが、まずはプシケに送り込む工作機の材料調達について話し合いましょう」
アーベルの声に促され、翔太はテーブルの上のノートパソコンに目をやった。
画面には、工作機を作るための素材リストが映し出されている。
貴金属のリスト――パラジウム、プラチナ、イリジウム――がずらりと並び、その横には必要な量と現在の資金状況が記されていた。
「前回のナノマシン製造の時より、必要な貴金属の量が10倍以上。しかも資金が足りないときた」
翔太は腕を組み、ため息をついた。
「どうするんだよ、これ……まさか盗むわけにもいかないし。産業廃棄物の再資源化装置でも得られる量は僅かだし」
アーベルはひとつ頷くと、何かを企んでいるような顔で髭を立たせながら口を開いた。
「そこで私の提案です」
「……嫌な予感しかしねぇ」
翔太が眉を寄せ、アーベルを睨む。
「南川除染技研へ貴金属の購入を頼みましょう。先日の発表で南川除染技研には大量の補助金と今まで滞っていた融資が活発化しています。資金にはかなりの余裕があります」
翔太は思わず天を仰いだ。
「クリーンアース・プロセスに対する融資だろ? それを違う用途の資金として使って大丈夫なのか?」
「問題ないでしょう。そのための隠れ蓑としての南川除染技研です。外部からは材料調達にしか見えません」
アーベルの声はなぜか自信に満ちていた。
「アーベルが大丈夫というならいいんだけど……仁さんには迷惑をかけるなぁ……」
翔太は再びため息をつき、椅子の背にもたれた。
「それからさ、ここのところ様々な技術を僕らに供与してくれているけど、銀河連盟のルール的に大丈夫なのか?」
アーベルは前足をぴょんと上げ、すました顔で答えた。
「大丈夫です。多分」
「……‘多分’って何だよ」
「もし銀河連盟の議会から訴えられたときは助けてください」
「簡単に恒星系を滅ぼす相手にどうしろってんだ……」
翔太は苦笑しながら頭を抱え、アーベルの無責任な態度に呆れた。
そこへ——
ピンポーン!
インターホンの音が鳴り響き、部屋の静寂を破った。
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「……また近藤か?」
翔太は警戒しながら立ち上がり、玄関へ向かった。
エアコンの騒音が背後で響く中、彼はドアのモニターを確認した。
そこには、大きな旅行用の鞄を抱えた涼子が立っていた。
コートの襟を立て、肩を震わせている姿が映っている。
「涼子?」
ドアを開けると、涼子は凍えた顔で家の中に飛び込んできた。
「翔太先輩……私、今日からここに住みます」
「は?」
翔太は困惑し、目を丸くした。
涼子は玄関に鞄を置き、息を整えるように深呼吸した。
冷たい外気が彼女のコートにまとわりつき、ひんやりとしている。
「何があった?」
翔太が尋ねると、涼子は靴を脱ぎ、リビングのソファに腰を下ろした。
そして、ポツリと呟いた。
「……最近、誰かにつけられてる気がしてたんです。カンファレンスの後から、ずっと」
「……マジか」
翔太の表情が険しくなり、アーベルの方を一瞥した。
「最初は気のせいかなって思ってた。でも、今日……部屋が荒らされてたんです」
涼子の手がわずかに震え、声が小さくなった。
「引き出しが開けられてて、書類が散らばってて……怖くなって、何も考えずに逃げてきました……」
その言葉を聞いた翔太は、すぐに状況を理解した。
南川除染技研の技術発表後、産業スパイが研究所の周辺をうろつくようになった。
翔太も怪しい影を見かけたことがあり警戒していたが、まさか涼子の自宅まで狙われるとは思っていなかった。
「……なるほどな」
翔太は深く息を吐き、ソファの背に凭れた。
「俺は構わないけれど……涼子、お前も年頃の女の子だろ。男の家に転がり込んで大丈夫なのか?」
涼子はじっと翔太を見つめ、静かに答えた。
「翔太先輩なら、大丈夫です」
その一言に、翔太は何かを言おうとして——やめた。
彼女の瞳には信頼と、少しの疲れが混じっていて、言葉を飲み込むしかなかった。
しばらくの沈黙が流れた後、涼子はソファに寄りかかるように倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か?」
翔太が慌てて声をかけると、返事はない。
彼女の肩に近づき、覗き込むと、涼子はすでに眠っていた。
長い睫毛が閉じ、肩の力が抜けたのか、彼女の表情は少し穏やかだった。
「……相当疲れてたんだな」
翔太はため息をつき、クローゼットから毛布を取り出した。
そして、そっと涼子にかけた。
毛布が彼女の肩を覆うと、小さな寝息が聞こえてきた。
黒猫のアーベルがその様子をじっと見つめていた。
ソファの背に座り、エメラルドの瞳が薄暗い部屋で光る。
「翔太さん」
「なんだ?」
翔太が振り返ると、アーベルの目が鋭く輝いた。
「一つ忠告しておきます」
アーベルの声が低く響く。
「これから、彼女、いえ、私達を狙う者たちは本気になりますよ」
「……だろうな」
翔太はソファで眠る涼子を見下ろしながら、小さく拳を握った。
南川除染技研の技術が注目を集めすぎた結果、スパイや競合企業が動き出したのだ。
関わっていた自分達の存在ももしかしたらそういった者たちに伝わってしまっているのかもしれない。
「なら、こっちも本気で守るまでだ」
翔太の声には静かな決意が込められていた。
彼は涼子の寝顔を見やり、アーベルに視線を戻した。
「お前も何か対策考えておいてくれよ」
アーベルは尻尾を軽く振って頷いた。
「了解しました」
部屋の中では、エアコンの騒音が響き続け、窓の外で風が木々を揺らしていた。