田中健は、かつてNASAの未来を担うエンジニアだった。
学生時代からロケット燃料の効率化に取り組み、次世代の推進システム開発に貢献していた。
燃焼効率を1%向上させることが、宇宙開発においてどれほどの意義を持つのか——彼は知っていたし、理解していた。
宇宙は人類のフロンティアだ。国境を越え、全人類のために開拓すべきものだと信じていた。
大学の研究室で徹夜を重ね、ノートに描いたスケッチが現実のロケットに反映されるたび、彼の胸は高鳴った。
だが、その信念は無残に踏みにじられた。
「君がデータを改ざんしたんだろう?」
突然の告発だった。
NASAの内部監査で、不正データの証拠が発見された。
彼の署名がある書類、改ざんされた解析結果——すべてが田中を犯人に仕立て上げる証拠として揃えられていた。
会議室の冷たいテーブルに書類が叩きつけられ、上司や同僚の視線が彼を刺した。
——何かの間違いだ。
必死に訴えたが、誰も信じてくれなかった。
それどころか、かつての共同研究者だった男が冷たく告げた。
「証拠は揃っている。潔く認めろ」
その言葉は氷のように冷たく、田中の心を切り裂いた。
失意の中、NASAを去った。
どれだけ否定しても、彼には何も証明できなかった。
研究者としてのキャリアは終わり、大学時代から積み上げてきたものが一夜にして崩れ去った。
そんな彼に手を差し伸べたのが、スペースY社だった。
「NASAは君を見捨てたが、私たちは違う」
そう言ってくれたのが、スペースY社のディレクター、アレックスだった。
スーツに身を包んだその男は、穏やかな笑顔で田中の肩を叩き、「君の才能を活かせる場所がある」と約束した。
恩義があった。
だから——どんな手段でも、その恩に報いると決めた。
そうして彼は、サキシマ重工への産業スパイとなった。
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「崎島さん……すみません……」
田中は震える声で呟きながら、スマホを操作しようとした。
組立棟の照明が彼を照らし、クレーンの遠隔操作アプリの画面が点滅している。
指がボタンに触れる瞬間——画面がブラックアウトした。
「……? なんだ、これ……?」
何度操作しても、スマホは反応しない。
真っ暗な画面に、突然、デフォルメされた黒猫の画像が浮かび上がる。
田中の目が困惑に見開かれ、手が震えた。
そして——
「これ以上はさせません」
スピーカーから静かな声が響いた。
アーベルの声だった。
低く落ち着いたトーンには、どこか不気味な威圧感が漂っている。
「誰だ!? 何が起こってる!?」
田中はパニックに陥り、スマホを必死に操作しようとした。
だが、それは完全に制御を奪われ、画面には黒猫が尻尾を振るアニメーションが繰り返されるだけだった。
崎島がゆっくりと歩み寄る。
コートの裾が揺れ、手が微かに震えていた。
「田中君、君の過去は知っている」
その声は怒りを抑えつつも、どこか悲しげだった。
「NASAでの不正告発事件の真相もね。……実は2週間前から君の正体には気付いていたんだ。ただ、君が妨害工作をするような人だと、私には信じられなかった…いや信じたくはなかったんだ」
「……真相?」
田中の声が掠れ、工具が床に落ちる音が響いた。
「これだよ」
崎島は懐から一枚の書類を取り出した。
折り目がついた紙には、細かい文字と通信ログが印刷されている。
「君のNASAでのデータ改ざん疑惑——仕組んだのはスペースY社の人間だ」
書類には、アレックスがNASA内部のスパイと交わした通信履歴が記されていた。
田中を陥れ、スペースY社へ取り込むための計画——日付、メッセージの内容、送金の記録までが詳細に列挙されている。
田中の手が震え、書類を見つめる目が揺れた。
「こんなこと……どうやって……?」
「アーベル君はこういうことも得意らしいんだ。まるでSF映画のスパイみたいにな」
崎島は苦笑し、アーベルの介入を軽く笑いものにしたが、その目は真剣だった。
「だから君は……こんなことをする必要はない。彼らへの忠義なんてないはずだ」
田中の手からスマホが滑り落ち、カチン、と床に転がった。
膝をつき、俯いた彼の肩が小さく震え、涙がぽたぽたとコンクリートに落ちた。
かつての夢、裏切られた信念、そして自ら選んだ破滅への道——全てが彼の胸を押し潰した。
「俺は……ただ……」
言葉にならない呻きが漏れ、田中の体が崩れるように縮こまった。
その瞬間、警備員が田中を取り押さえた。
作業員たちが周囲を囲み、無線機のノイズが響く中、彼は抵抗せずに連れ去られた。
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アメリカ・スペースY社本社。
ディレクターのアレックスは、ガラス張りのオフィスで優雅にコーヒーを飲んでいた。
革張りの椅子に座り、窓の外に広がるカリフォルニアの雄大な景色を見下ろす。
今頃、田中が妨害工作を終えた頃だろうと、彼は満足げにカップを傾けた。
その時——ピロン、と通知音が鳴る。
「やっと来たか……」
アレックスは微笑み、デスクのタブレットを手に取った。
だが、それは田中からではなかった。
見たことのない宛先からのメールだった。
(おかしい……社内セキュリティで不明な宛先からのメールは届かないはず……)
疑念を抱きながら、アレックスはメールを開いた。
件名:『私は見ている』
本文:「これ以上、妨害工作するな」
——たったそれだけ。
だが、そこには添付ファイルがついていた。
アレックスの眉が寄り、指が一瞬躊躇した。
「……何だこれは?」
恐る恐る開くと——そこには、アレックスが行ってきた妨害工作の証拠が記されていた。
NASAへのスパイ工作、田中の陥れ方、サキシマ重工への指示——暗号化された通信ログ、音声ファイル、銀行取引の詳細までが完璧に揃っている。
アレックスの手が震え、カップがデスクに倒れてコーヒーがこぼれた。
「……一体、誰が……?」
画面の端で、黒猫のアイコンが小さく揺れていた。
アレックスは背筋が凍りつき、部屋の空気が急に冷たく感じられた。