火曜の午後一時。曇り空の渋谷駅ホームは、昼休み帰りの人々で軽いざわめきに包まれていた。
宙は改札を抜けてエスカレーターを降りながら、仕事の愚痴を反芻していた。「今日も上司に耐えられず、思わず口答えしてしまった……」と、少し後悔の色を滲ませた表情で。忍耐力が足りないと周囲に言われても、どうしても腹が立つ時は立つ。
そのとき、視界の端で白い閃光が走った。駅構内の広告パネルが爆発したかと思ったが、違う。足元のタイルが光を放ち、空間がねじ曲がっているように見えた。
「は?」宙は立ち止まる間もなく、足元の裂け目に吸い込まれた。周囲の人々は悲鳴を上げたが、その声は一瞬で遠ざかる。
気づけば、湿った土と苔の匂いに満ちた広大な石造遺跡の中に立っていた。太陽の光が差し込み、薄暗い洞窟の出口が正面に見える。都会の音は一切なく、風の音と鳥の鳴き声だけが聞こえる。
「……どこだ、ここ?」思わず声が漏れた。
背後で足音がした。振り向くと、金髪の女性が立っていた。動きやすい旅装をまとい、腰には剣。見知らぬ文化の香りが漂う。
彼女は軽く手を振り、明るく微笑んだ。「驚いたでしょう? ようこそアルスター王国へ。私は美里。あなたを案内する者よ」
唐突すぎる紹介に宙は口を開けたまま固まったが、美里は気にも留めず手を取った。
「立っていられる? じゃあ行きましょう、ここは長居すると危ないの」
遺跡の外に出ると、一面に草原が広がり、遠方には城壁を持つ大都市が見えた。石畳の道に荷馬車が行き交い、甲冑を着た兵士たちが巡回している。宙は混乱を隠せない。
「待って、なんで俺はここに……」
美里は笑って肩を軽く叩いた。「説明はあとで。今はついてきて!」
その声色は不思議なほど信頼感を誘い、宙はつい頷いてしまった。
走りながら宙は考える。「これは夢だろうか? でも風の冷たさも、足元の石の感触もリアルすぎる。」
胸の奥に広がるのは、不安と――なぜか少しの期待だった。
美里は走りながらも、周囲への気配りを忘れなかった。背後を振り返り、宙が転ばないように歩幅を合わせる。
「あなた、名前は?」
「……宙。普通の会社員だよ」
「ふーん、普通の会社員ね。じゃあこの状況は非日常ってことだ」
軽やかな口調で美里は笑う。まるでこの事態を楽しんでいるかのようだ。
丘を越えた先、街道脇の木陰に停められた馬車が見えた。御者台には褐色の肌の青年が座り、商人風の服装をしている。彼は慶と名乗り、気さくに手を挙げた。
「そっちの男は新人か? 急いで乗れ、門限に間に合わなくなる」
宙は意味がわからないまま荷台に押し込まれた。
馬車は軽快に走り出し、遠ざかる遺跡を眺めながら宙は問いをぶつけた。
「ここ……アルスターってどこなんだ? 俺は渋谷にいたはずなんだよ」
美里は軽く肩をすくめた。「世界が違うの。あなたは“光裂”に選ばれた転移者。詳しい理屈は専門家じゃないとわからないけど」
宙は額に手を当てて深く息を吐いた。忍耐力が足りない自覚はあったが、この現実はさすがに受け止め切れない。
「……戻れるんだろうな?」
美里は視線を逸らしつつも笑顔を崩さなかった。「まずは生き延びることが先決。それに、あなたは“特別な体質”みたいだし」
夕暮れが近づくころ、馬車は王都南門へ到着した。石造りの巨大な門と、その周囲を行き交う人々の数に宙は息を呑む。見たことのない装備の兵士たち、異なる種族の商人、そして遠くで奏でられる笛の音。
「ここが……アルスター王都……」
現実感のない風景に足がすくんだが、美里は笑って背を押した。
「さあ、これからあなたの物語が始まるわ。覚悟はいい?」
宙は無言でうなずき、再び歩き出した。
そのとき、街の中心から鐘の音が響いた。空を見上げた宙の視線の先、雲間を裂いて光が走る。美里は短くつぶやいた。
「……“大罪の彗星”まで、あと百日」
宙の胸に、得体の知れない不安が広がった。