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第5話 一歩目で躓く




「い、いぃ~~ちっ……。

 へきゃっ!? ……痛ぅぅ~~~っ!」



 体重を両手と両足の爪先で支えたうつ伏せた状態で両腕をゆっくりと伸ばしてゆく。

 所謂『腕立て伏せ』と呼ばれるトレーニングの動作だが、身体を持ち上げきったところでプルプルと震える腕に限界が訪れた。


 悲鳴を無様にあげて、床へ潰れた後、両手を胸にあてがいながら横臥した身体を丸める。

 おっぱいを強打すると、こんなにも痛いとは知らなかった。今後は気をつけよう。


 しかし、痛み以前にこの貧弱な身体に涙が出てきそう。

 今、腕立て伏せを満足に一回も出来なかったが、腕立て伏せを行う前に行った幾つかのトレーニング動作の成績も散々だった。


 膝を曲げての腹筋は首が持ち上がっただけ。

 スクワットは一回だけ成功。二回目は立ち上がりきる前に尻餅をついた挙げ句、そのまま息も絶え絶えにひっくり返って、暫く動けなくなった。



「はぁぁ~~~……。ダメダメのダメダメだぁ~~……。」



 暫くして、胸の痛みが治まると、今度は両の二の腕に鈍い痛みを感じ出す。

 どうやら、この身体は自分自身を支えただけで筋肉痛を起こしてしまうポンコツらしい。

 身を起こして、その場に胡座をかき、右手で左の二の腕を、左手で右の二の腕を揉みながら溜息を深々と漏らす。


 言い訳をするなら、今着ている服はワンピーススカート。

 コルセットをきつくない程度に軽く締めてもいて、そもそも運動に適した服装とはいえない。


 だったら、服を着替えたら良いと思うだろうが、服を着替える事が出来ない。

 但し、私『メアリス』のように着替える術が解らないという理由からではない。


 ただ単純に身体が固すぎた。

 ワンピースを留めている背中のボタンに両手が届かず、服を着替えるとなったら、誰かの手を借りる必要が有った。


 だが、その選択肢は飲めない。

 もし、呼び出しのベルを鳴らしたら、この部屋へ駆けつけてくるメイドさんは十中八九の確率で私『メアリス』専属のヒルダだからだ。


 昨夜は凄かった。

 何度も何度も耐えたが、極みの極みに達した瞬間に意識を失ってしまい、気づいたら朝になっていた。


 本当に凄かった。

 何が凄いかって、猫族であるヒルダの舌は人間よりちょっとザラザラとした感触が有り、それが抜群に凄かった。


 ヒルダと再び顔を合わせたのは起床直後。

 さすがはプロのメイドさん。昨夜の出来事がまるで夢の中の出来事だったかのようにいつも通りの態度。


 しかし、俺には無理だった。

 言われるがままに着替えをさせられている最中、平静を装えず、顔は真っ赤に染まり、声は上擦って、絵に描いたような挙動不審っぷり。

 その後はトイレを済ませて、朝食へ向かえば、事情を知らない者達に怪訝な顔をされ、その理由を問われるのが怖くて、朝食を素早く済ませると、この自室へ逃げるように帰ってきていた。


 どうしても心を落ち着かせる時間が欲しかった。

 どの道、昼食の時間になったら、ヒルダと顔を合わさなくてはならず、それまでの猶予が欲しかった。


 多分、それをヒルダも理解している。

 その証拠に用事が無い限りは何処へ行くにも一緒に居るのが当たり前の筈の姿が無い。今、この部屋に俺一人だけ。


 もっとも、私『メアリス』が所有する服はスカートの類ばかり。

 貴族の嗜みとして、自分専用の馬を持ち、乗馬の際に用いるズボンを持っている筈だが、それが何処に有るかが解らない。

 自室と隣接するドレスルームには、これほどの数が本当に必要なのかと呆れるくらいに色とりどりの服が吊り下がっており、すぐにドアをそっと閉めて探すのを諦めた。



「いやいや、千里の道も一歩からだ!」



 顔を左右に振ってから、頬を両手で軽く叩き、萎えかける心を奮起させる。

 丸一日が経たない間に二度気絶をして、二度目を覚ましても今が続き、その抗えようがない現実を認めた時、俺はこの世界で生きてゆく決心を固めた。


 無論、元の生活に未練も有れば、心配も有る。

 だが、自分自身でどうする事も出来ないのだから吹っ切るしかないし、未練や心配以上の大きな期待があった。


 今、この世界は剣と魔法の時代。

 人類との勢力争いには負けたが、奥深い森には暴力を是とする化け物『モンスター』が闊歩。

 私『メアリス』が貴族籍を置く『アルビオン帝国』は戦争という手段で経済を回す軍事国家であり、特に東方の大国とは不倶戴天の敵同士。国境を一進一退させて、五十年以上も争い続けている。


 地球における時代区分で言うなら、中世と近世の間くらいか。

 この世界では科学よりも魔法学が大きく発展。個人の資質を必要とせず、誰にでも扱えるマジックアイテムが発明されて、それが人々の生活を豊かにしており、第一次産業革命前夜といったところ。


 寝室のベッドに備え付けられたナイトランプもその一つ。

 詳しい原理は知らないが、魔晶石なるものに蓄えた魔力をエネルギーに変換しているらしい。要するに『電池』のようなもの。


 しかし、価値は『電池』と比べ物にならないくらい高い。

 マジックアイテムは富を持つ者に許された存在であり、社会の貧富差は大きい。


 その根底を成すのが身分階級。

 この国では上から皇族、貴族、市民、準市民、平民とあり、親子による身分継承を原則的に認めない一代限りの奴隷階級が最下層にある。


 だからこそ、今の現実が生まれ変わりであるなら、超幸運の星の下に生まれたというしかない。

 こうして、色々と悩んでいられるのは貴族としても上澄みの超セレブな侯爵家の令嬢に生まれたからだ。

 もし、財産どころか、自由すら持たない奴隷だったら辛すぎて、俺は現実を認められずにおかしくなってしまうかも知れない。


 そう考えたら、身体が女の子になったのも、その身体が貧弱なのも些細な事に過ぎない。

 第一、この世界の事情を知り、心が燃え滾らない筈が無い。男とは『剣と魔法』というキーワードにロマンを感じてしまう生き物である。



「いちっ! にぃっ! さんっ!」



 休憩を切望する身体に鞭を打ち、燃え上がる心の赴くままに剣を振る。

 剣道でいうところの『正眼の構え』から始まり、頭上へと振りかぶった剣を振り落としては再び構えるを繰り返す。


 ちなみに、剣といっても本物の剣ではない。

 食堂からこの自室へ帰ってくる道中、廊下に飾られていた甲冑が持つ剣を抜いてみようと試みたが、剣が重すぎて抜けなかった。


 その為、この剣は代わりになる品を探して見つけた用途不明の良い感じの棒である。

 長さと握りの太さは程良いが、昨日まで鍛錬で用いていた木刀と比べたら随分と軽い。この身体の貧弱さを知った今、まずはこれで十分だろう。



「よっ、あっ!?」



 だが、その甘い認識すら間違っていた。

 一回目、素振りとしては落第点でも剣自体はちゃんと振れた。

 ニ回目、一回目の反省点を踏まえて振り落とすと、大胸筋と腹筋、上腕二頭筋が早くも悲鳴をあげ始める。

 三回目、当初の100回の目標は高望みが過ぎると理解して、目標を10回に変えて、握りを強めた。辛うじて、及第点すれすれの素振りを実現させたが、手首がかなり痛い。


 そして、四回目。剣を振り落とす途中、握力が限界を突破。

 両手からすっぽ抜けて飛んだ剣は窓ガラスを派手な音を立てて割り、そのまま外へ飛んでいってしまった。


 マジックアイテムほどではないにしろ、ガラスも贅沢品。

 サイズが大きいほど、透明度が高いほど値段は高くなってゆく。

 私『メアリス』に甘い父親曰く、この部屋の窓ガラスは『これほどのものは陛下の執務室でしか見た事がない』らしい。



「ヤ、ヤバい……。ど、どうしよう?」



 疲れとは別の汗が全身に噴き出してくる。

 ガラスが割れる音を聞きつけたに違いない。屋敷全体がにわかに騒がしくなり始めている。

 どうやらヒルダとの再会は予定よりずっと早くなりそうであり、その近未来に二重の意味で顔を引きつらせるしかなかった。




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