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第6話 挫けない歩幅




「痛たたたっ……。」



 俺が私になり、私として生きる決意をしてから今日で十日目。

 鍛錬一日目に『千里の道も一歩から』と励まして、朝昼晩と鍛錬を続けてはいるが、この身体の歩幅はあまりにも狭かった。


 腹筋も、背筋も、腕立て伏せも、スクワットも連続で五回以上達成したした試しが無い。

 屋敷の周囲を回るランニングとて、五十メートルも走らない内に顎が上がる。私は懸命に走っているつもりでも、私を励まして並走するヒルダへ横目を向ければ、その場で駆け足をしているだけ。


 屋敷を一周した頃には息も絶え絶えに一歩も動けなくなり、全身がまるで土砂降りの雨を浴びたかのように汗まみれ。

 こんなざまで千里へ到達するのはいつの事になるやら。決して諦めたりはしないが、いかんせん全身の筋肉痛が酷くて、休養を欲する身体の渇望感が半端ない。


 ついでに、愚痴をもう一つ。筋肉痛を和らげる為、身体の各所に貼っている湿布臭が酷い。

 私はもう慣れてしまったが、使用人達が私が近づくと目をしきりに瞬きさせているし、鼻が利く犬族の執事長に至っては近寄ろうとせず、会話が必要な際は私との距離を十メートルほど必ず置いていた。



「お、お嬢様っ!?」

「ん?」



 悲鳴をあげる身体に鞭を打ちながら歩いていると、驚きを含んだ大声が吹き抜けのエントランスホールに響き渡った。

 誰かは声色で解っていたが、筋肉痛でふらつく身体を支えている二階廊下の手すりから思わず身を乗り出して、声が聞こえた一階を覗き込むと、洗濯物と思しき衣類を満載にした籠を両手で抱えているヒルダがこちらを見上げていた。


 余談だが、私が唐突に身体を鍛え始めた件について。

 勿論、ヒルダを始めとする使用人達は戸惑ったが、今では完全に受け入れられて、応援もされている。


 なにしろ、私は貧弱な上に病弱でもあった。

 午後になると体調を崩して寝込む事が多くて、季節の変わり目は必ずと言って良いくらいに風邪を患っていた。


 当たり前といえば、当たり前。

 食が細くて、簡単な身の回りの世話さえも他者に任せなら、行動範囲も狭い。屋敷の外へ出ようとしないどころか、食事さえも自室へ運んで貰う事が多い完全なインドア派という名の引き籠もりだったのだから。


 貧弱は貴族令嬢として許されるかも知れないが、病弱はいただけない。

 月一にある医者の診察を受ける度、決まって最後に体力作りの運動を薦められながらも頑なにずっと拒み続けていた。


 それ故、鍛錬の目的は体力作りの為とヒルダ達には伝えてある。

 すっぽ抜けた良い感じの棒で窓ガラスを割った時は執事長から大目玉を食らったが、それを話したら涙を流して喜ばれた。


 ただ過保護が過ぎるのは困っている。

 運動をするのに適したシャツとズボンを即日で用意してくれたのは嬉しかったが、その品は前世の一般的な感覚でいったら余所行きで通じる立派なもの。

 素材も一級品なら、機能性を重視しながらもオシャレを忘れていないデザインも一級品であり、それを汗や泥で汚して良いのかと当初は用いるのに強い躊躇いを感じた。


 食事だって、今では毎食が特盛り。

 少食で食べ残しが普通だった私が出された食事を全て食べきり、もうちょっと食べたいなと零して、偏食を重ねに重ねた末に嫌っていた肉をたまには食べたいなとリクエストしたら、この屋敷に仕えるシェフが感激して張り切り始めた。


 昨夜の夕飯なんて、『えっ!? 何かのお祝い?』と零してしまうくらいのご馳走だった。

 食品の冷凍はマジックアイテムで可能だろうが、運搬は馬車が最速のこの世界において、肉と魚は高価な品と察せられるのに。


 それと現在進行形で酷い筋肉痛に悩まされているが、所詮は筋肉痛。車椅子を用意するのは大袈裟と言うしかない。

 それも侯爵家の令嬢が用いるのに相応しい品格を持った逸品であり、初めて目の当たりにした時は開いた口が塞がらなかった。



「お部屋でお休みになっていられたのではっ!?

 あっ!? お花摘みですね! 今すぐ用意します! その場でお待ち下さい!」



 特にヒルダの過保護が酷い。

 専属といっても四六時中を一緒に居る必要は無い。具体例を言うと、今が正にそうだ。


 屋敷一周のランニングの後、疲労あまり手入れされた庭の芝生に大の字となって寝そべり、ちょっとの休憩のつもりがそのまま寝てしまったらしい。

 目が醒めたら自室のベッドだったが、私を運んでくれたのも、身体が汗臭さを感じさせずにさっぱりとしていたのも、寝苦しさを微塵も感じさせないように全裸だったのも、起きた時の為に下着とシャツをベッドの横に用意してくれたのも、ヒルダのおかげに違いない。


 だから、私は感謝はしても、寝ている間に私の元を離れた事を非難したりしない。

 そんな時くらい休んだってバチは当たらないし、働きすぎなヒルダはもっと積極的に休むべきだとも考えている。


 しかし、ヒルダの声は自分自身を責めていた。

 それと私が股間を左手で強く強く押さえているのを目ざとく見つけたのか。抱えていた籠を足元に置くと、血相を変えて、階段を駆け上がってきた。


 一応の補足すると、ヒルダが言っている『花摘み』とは『用足し』の隠語である。

 女性の用を足す姿が花を摘んでいる姿に似ているのが由来となっており、こうした洒落っ気は世界が変わっても一緒のようだ。



「大丈夫! すぐそこだし! 一人で出来るから!」



 慌てて開いた右掌をヒルダへ向かって突き出す。

 私が私になる以前は羞恥どころか、疑問すら感じずにヒルダ達の手を借りて済ませていた用足しだが、今となってはやはり恥ずかしい。


 だが、当たり前に行っていたからこそ、それをいきなり拒絶したら強い困惑を与えてしまう。

 只でさえ、体力作りの鍛錬という大きな変化を許容させているのだからと考えて、恥ずかしさを堪えながら今まで通りにヒルダ達の手を借りて済ませていた。


 しかし、チャンスは不意にやってきた。

 強い尿意と共に目が醒めたら、ヒルダの姿は見当たらず、今こそが胸に秘めていた計画を実行する時だと決断した。

 即ち、誰も居ない時とタイミングが合い次第、一人で用を足した実績を作り、それを積み重ねる事でヒルダや使用人達の認識を改革する『ちゃんと一人で出来るもん』計画である。


 しかも、今はパンツとシャツ一枚の姿。

 用を足す上で煩わしいスカートは履いておらず、女の子初心者の私でも難易度は低い。

 侯爵家令嬢として、廊下をほぼほぼ下着姿で歩くのはいかがとは思ったが、それ以上に誰かの視線を気にせず心置きなく用を足せる魅力が大きく勝った。


 だが、今は少し後悔している。

 後始末だけは任して、部屋の隅に備えられているオマルで済ませておくべきだったと。


 私にとって、用を足す場所といったらトイレだ。

 この世界にもその文化は存在するが、下水道が未発達の為にオマルを用いる文化も存在する。

 とりわけ、富を持つ者達はもよおしたらすぐ簡単に済み、後始末も使用人が行ってくれる手間要らずのオマルを好み、私が私になる以前の私もそうだった。


 しかし、今の私は違う。

 オマルは幼い子供が使う道具という認識がどうしても拭いきれない。


 それに私が常用しているオマルの見た目が立派な木馬なのも嫌だ。

 使用時は木馬の首と尻尾にスカートの前後をかけて、汚さない工夫が成されているのが憎い。


 ぶっちゃけ、私は毎晩をヒルダと共にしている。

 恥ずかしいところを何度も何度も見られているが、その恥ずかしさと木馬に跨っている姿を見られ続ける恥ずかしさは別のものだ。


 ついでに言えば、大と小の色を分析されるのが辛い。

 臭い筈にも関わらず、鼻をクンクンと鳴らして嗅ぎ、ニッコリと笑顔で『健康ですね!』と喜ばれるのは堪らないものが有る。


 ただ、この屋敷は無駄に広い。私の部屋から共用トイレまでが遠い。

 全身筋肉痛の悪条件も有り、壁に突いた右手を支えにして、あと十数歩のここまでようやく辿り着いた。



「あっ!?」



 だったら、身体を支えていた右手を外したらどうなるか。

 その答えは決まっている。『生まれたばかりの子馬のようにプルプルと震わせる足がバランスを崩す』だ。




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