「お嬢様!」
「えっ!?」
立っているバランスを崩した私が床に崩れ落ちる事は無かった。
膝が床に落ちる寸前、ヒルダがふわりと優しく抱きとめた。
「お怪我はありませんか? 痛むところは?」
「えっ!? えっ!? えっ!?
どうして? だって、あそこにいたよね? ……えっ!?」
明らかにおかしい。絶対に有り得ない現実だった。
私が呼び止められた時、ヒルダは二階へ上る階段の一歩目に足を置いて、一階に居た。
私がバランスを崩した時、ヒルダは既に階段を駆け上がっていたが、まだ中二階の踊り場手前に居た。
そこから私が居るところまでは踊り場を左へ曲がり、階段を更に登って、再び左へ曲がり、廊下を進まなければならない。
到底、間に合わない距離。
素敵なクッションになってくれたヒルダの胸の中で安心感を得るよりも混乱する。
ヒルダは猫族。人間より優れた跳躍力を持つ。
私がバランスを崩した時、ヒルダが向いていた方向と私が立っている位置は逆方向となり、どれほど跳躍力に優れていたとしても、力学的に考えたら今さっきの一瞬では不可能だ。
「フフッ……。お嬢様、お忘れですか?
その昔、旦那様とお嬢様のご厚意で私も一緒に魔術を学ばせて頂いたのを」
「魔術っ!?」
その解答をヒルダがニッコリと微笑んで応えた瞬間、天啓を得た。
何故、この世界が剣と魔法の時代と知りながら、魔法の存在を思考の外に置き去っていたのか。
前世において、御伽噺の存在でなかった魔法が使えるなら、千里の道のりはぐんと縮まるどころか、その先にある万里の到達も夢物語では無い。
不可能を可能にした目の前の現実が期待を大きく膨らませて、鼻息がフンフンと荒くなる。
「はい、風属性の魔術です。
……と言っても、私は才能がそれほど有りませんから、一瞬しかって……。あら?」
「んっ!? ……ああっ!?」
だが、その高揚感はすぐに深い深い絶望となって塗り替えられえてしまう。
言葉を不自然に止めたヒルダが抱擁を解いて、目線を何やら下へ向け、それに釣られて足元を見るなり愕然とした。
赤い絨毯が濡れて、そのシミを広げていた。
膝を突きそうになった瞬間か、ヒルダに抱き留められた瞬間か、魔法の存在に驚いた瞬間か、そのタイミングは定かでない。
確実に判明しているのは、赤い絨毯を濡らしている液体の正体とその発生源が何処かの二つ。
その二つが解っていたら、十分過ぎた。自覚したら生温かく濡れる両足の内側が気持ち悪い。
あくまで私見だが、今日までの十日間で悟った事が一つ有る。
男性と比べたら、女性は我慢が効きづらくて、それを一度でも放ったら止めるのは困難という事だ。
もっとも、それを今更再確認したところでどうにもならない。
自分の情けなさの証拠を見つめて、顔を上げれずにいると、ヒルダの気配が目の前から遠ざかってゆくのを感じた。
笑われるのは嫌だったが、罵声でも構わないから何かを言って欲しかった。
呆れるあまり言葉すら見つからず、愛想を尽かされたのだろうかと不安が渦巻きかけたその時。
「冷たっ!?」
水が股間へ勢い良く浴びせられた。
下半身はパンツ一枚だった為、その冷たさに思わず内股となり、水を浴びせられた方向を見ると、無表情のヒルダが花瓶の口をこちらへと向けていた。
「お嬢様、申し訳ございません」
「えっ!? ……何が?」
驚きに見開いた目をパチパチと瞬き。
ヒルダは左手に持つ花の束を花瓶へ入れると、それを廊下の飾り棚に戻して、私に跪きながら頭を垂れた。
「花瓶を倒したばかりか、その水でお嬢様を汚してしまいました。
いかなる罰もお受け致します。どうか、寛大な心で私の不注意をお許し下さい」
たまらず顎が抜けそうになるくらい口をポカーンと開ける。
私の失態を見なかった事にしてくれるだけでも十分に関わらず、敢えて水を私へ浴びせて、自分は泥を被ろうという機転がイケメン過ぎて痺れる。
この身は女性でも、私には存在しないだろうと思っていた乙女回路が高速フル回転。
熱く熱く火照り始めた顔と加速的にキュンキュンと高鳴る鼓動に戸惑い、ヒルダに抱きつきたい衝動を懸命に耐えた。