――バタンッ バタンッ!
デイジーは、子爵家の自室で目を覚ました。なぜか窓が、開いたままだった。風に吹かれて開閉を繰り返し、大きな音を立てている。床には、書類が散らばっていた。
全身の筋肉が、あちこち痛い。
まぶたは腫れ、喉もカラカラに乾いていた。
「また、泣いたまま寝ちゃったのね……」
デイジーは、ベッドに横たわりながら、気だるげに吐息をこぼす。
「いやだわ私……一晩中、開けっ放しだったのかしら」
起き上がって窓を閉め、書類を拾い集めた。王宮から昨日届いた封筒が、目に止まる。王室の紋章が金糸で縫い込まれた、きらびやかな手紙。
だが、その文面には、温かさや愛情のカケラもなかった。
〈エルバイン子爵家令嬢 マーガレット・アステア殿。貴殿との婚約解消を、以下の通り申し込む〉
「婚約解消の申し込み……って何よ……」
涙は、さすがにもう出尽くした。
デイジーは、唇を噛みながら、そっと胸に手を当てる。
その奥には、確かに一度、愛があった。
そう、思いたかった――
――王立中央学院、図書室の午後。
「……この席、空いてるかな?」
ふいに声をかけてきた銀髪の男子学生に、彼女は小さく、うなずくことしかできなかった。
この学園に通う上流階級子女の中でも、特に輝く「王子様」が声をかけてきただけで、内気な彼女は耳元を熱くした。
「君、いつもここにいるよね。小説、好きなんだ?」
「あっ、はい……騎士道恋愛小説とかばっかりで、お恥ずかしいんですけど……」
「文学少女なんだな。俺はジェラルドだ。ジェラルド・カステイオ」
「ぞ、存じ上げております、殿下……私……エルバイン子爵家の……マーガレット……です」
「いい名前だな。君に似合ってるよ」
あの日の笑顔は、作り物じゃなかった。
本当に、気さくて、明るくて。
「……そういう物語なら、ここより王宮の書庫のほうが揃ってる。著者が書いた、手書きの原稿とかもあるんだぜ。貸してやろうか」
「えっ……そ、そんな、
「じゃあこうしよう。俺は本を貸す。君は、俺に勉強を教える……それでどう?」
あの頃、彼は彼女を、大切に扱ってくれた。
太陽のような微笑を浮かべ、「可愛いよ」と言ってくれた。
──二人で過ごした図書室。
──顔を真っ赤にしながら踊った、学園祭のダンス。
──卒業試験を終えた日、並んで歩いた中庭の小道。
「あの時の私は、最高に幸せで……今思えば、まるでバカみたいだったな……」
口に出せばなおさら、悲しみが溢れ、胸が苦しくなる。
デイジーは、カーテンをギュッと握りしめた。温かい朝の光が、窓越しに彼女を包む。けれど胸の内にはまだ、闇夜の冷たさが残ったままだ。
彼との縁談が決まった時、父母は、驚きと共に喜んでくれた。
「うちのデイジーが、王子殿下に?」
「これで、エルバイン子爵家も末代まで安泰だな! よくやったぞ、デイジー!」
しかし、婚約が成立し、持参金が支払われると――
彼は、変わり始めた。
最初のうちは、あからさまに冷たい態度は見せなかった。ただ、少しずつ距離を置かれた。
「公務で忙しいんだ」
そう言われ、素直に信じた。
やがて、手紙を出しても返信が来なくなった。
デイジーは、社交の場に出ることすら困難になった。たとえ招待状が来ても、婚約者であるジェラルドがエスコートしてくれない以上は、欠席するしかない。
まさか婚約中の身で、他の男性と行くわけにもいかない。さりとて一人で行けば、たちまち「捨てられたか」と噂されるだろう。内気なデイジーには、とても耐えられそうになかった。
──そして、決定的だったのは、あの日。
商会の用事で、たまたま立ち寄った王都の劇場。
貴賓席の裏手から、男女の笑い声が漏れていた。
「エレノア、君はまるで、妖精みたいに愛らしいよ」
「ふふ、殿下ってば……お望みなら、私が小さな妖精なんかじゃなくて、立派な大人の女だってことを、はっきり分からせて差し上げますわ」
ドア越しでも、はっきりと聞こえた。
媚びる彼女の声と、下品な彼の声。
逃げるように帰路へついたその夜、デイジーは一晩中、枕を濡らしながら明かした。
――ジェラルドは、もう彼女を見ていない。
昔のように、優しい言葉をかけてもくれない。
「じゃあ、どうして私を選んだの……?」
答えは簡単だった。
恐らく、彼が愛したのは、彼女ではなかったのだ。
ジェラルド王子に必要だったのは、エルバイン子爵家からの無利息融資。結局、それだけの話と思われた。
「……だったら最初からそう言ってくれれば、気が楽だったのに……」
涙が、頬を伝う。
ジェラルドが送ってきた手紙は、あまりにも事務的だった。
〈……王室会議の承認を経て、正式に婚約を破棄し、両家間の契約を解消したいと考える。なお、既に支払われた持参金は、元本を全額返金することをここに約束する。
ロンデニア王国 ジェラルド・カステイオ王子〉
わずか、数行。
反省のかけらもなかった。
あの笑顔も、優しさも、全てが偽りだったのか――
そう思えてしまうことが、何より苦しかった。
「でも……それでも私は……」
彼との思い出だけは、信じたかった。
震える手で、昨日届いた手紙をもう一度開く。
何度破ろうとして、破れなかったか、もはや分からない。
「私、何がいけなかったの?」
きっと誰にも、届かない問い。
きっと誰からも、無視される声。
――けれど、既にこの時、誰かが、答えを返していた。
まだデイジーは、気づいてはいなかった。
既に「もう一人の自分」が目覚め、声を上げていたことを――
(あれ? 私、こんなのいつ書いたっけ……)
机の上に、革表紙のノートが開いたまま、無造作に置かれてあるのをデイジーは見つけた。
〈行動なき思考は闇を呼ぶ。あなたが動かぬなら、私が動きます〉
(……何これ?)
ひどく乱れた筆致の、走り書きだった。デイジーが続きを読もうとした瞬間……
――ダン、ダン、ダン!
扉が勢いよくノックされ、メイドの声が聞こえてきた。
「お嬢様! 朝食のお時間です。子爵様も間もなくお出ましです。お早く、ダイニングルームへ!」