「……ちっ」
口に出したつもりはなかった。
だが、このところの忙しさで自己抑制がうまくできていないらしい。僕もまだまだ未熟だということに、また苛立ちが募る。紙の上で飛び散ったインクに今の自分の集中力のなさを感じた。
耳聡く聞きつけた同室のライアンが、横になっていたベッドの上から好奇心を隠しもせずこちらを見た。
「なんだ、どうしたアレク。なんかあったか? もしかして舌打ちしたのか?」
「やめろ声を弾ませるな」
「だって面白いじゃないか!」
本を読んでいたのではないのか。
小さな舌打ちにそんなにも喜んで飛びついてくるなんて、集中できていない証拠だ。
「誰よりも優秀で人格者でいつも微笑みを絶やさない麗しの貴公子アレク・フォン・フューリッヒが、舌打ちをしたんだぞ! 騎士学園の寮の一室で!」
「……自分で言っていて、おかしなことを言っていると思わないのか?」
はあ、とため息をついて日誌を閉じ、ライアンに視線を向ける。
上級学年に上がってから同室になった彼は、辺境伯家次男で、家督を継いだ兄の補佐をすべく騎士を目指している人物だ。貴族だが言葉遣いはざっくりとしており、本人曰く土地柄だと言うが違う。一度お会いした兄上は所作の美しい方だった。
「ご令嬢方の間でそう言われてるじゃないか」
「やめてくれ、本当に」
「ははっ!」
貴族として振る舞っているだけだ。それがなぜ物語の主人公のように言われるのかわからない。勝手に人物像が一人歩きしている。
「でもまあ、本当のお前を知ったらご令嬢方はもっと喜びそうだけどなあ」
「たまに口が悪いのはライアンのせいだよ」
「違う違う、そこじゃねえよ」
彼はベッドから身体を起こすとポイッと手にしていた本を放り投げ、机の椅子を引っ張りだし僕の横に腰掛けた。
「で? 婚約者殿となんかあったのか」
「……なぜ」
「なぜって、お前の関心事は婚約者殿だけだから」
「……」
「三年前の立太子祝賀会でも大荒れで大変だったじゃないか。婚約者殿が王都に来ているのに、屋敷に泊まっているのに会えないって喚いて」
「喚いてない」
「んで、警護担当の騎士隊に頼み込んで遠くから姿だけ見てたよな」
「……ちゃんと任務は遂行した」
「日頃の行いがいいから許されたんだろ。遠くから覗いて喜んでるお前見てさ、さすがの俺もかわいそうだなって思ったよ、なんか」
憐憫の眼差しを向けるライアンを見て舌打ちしそうになるのをぐうっと堪えると、「顔怖すぎ」とゲラゲラと笑われる。指で眉間を揉むと、確かにずいぶん力が入っている。
「なんだよ、婚約者殿ともうすぐ会えるんだろ? 早めに来てお前んとこの屋敷に滞在するからって、あれこれ手配してたじゃないか。なんか問題でもあったか?」
「いや、問題なく屋敷に到着した」
「じゃあ何だよ」
ライアンの言う通り、僕は今回ユフィールを領地から呼び寄せるためにあらゆる手配をしてきた。
長い道のりを快適に過ごせるよう、新しい技術を駆使した馬車を手配し、道中の安全のために専属の護衛騎士と道すがら通過する各領地の有力者へ警護依頼と通行の許可、野宿などにならないよう計画的に運行予定を組み必ず警備のしっかりした宿に宿泊してもらった。
領地にいるご両親にも手紙を出し心配しないよう伝え、ユフィールが到着したと聞いてすぐに彼女の無事をご両親に伝えた。
そして。
「……返事が来ないんだ」
「返事?」
ユフィールの到着に合わせ、僕は初めて彼女に高価な贈り物をした。
日々のやり取りの中で、僕は彼女がいかに物を大切にし、本や芸術を好み、季節の移ろいを感じ花を愛で、日々を慎ましく暮らしているか知っている。それは爵位や身分などは関係なく、彼女がそういうものに心を惹かれる人だからだ。
だから僕はこれまで、贈り物は彼女の身近なものに留めるようにしてきた。
華美な装飾品ではなく、彼女の好みそうな本。レースのハンカチや美しい透かしの入ったしおり、万年筆やなめし革の柔らかな手袋、肌に優しいウールのストール。
彼女はとても喜んでくれたし、そんな彼女からお礼の手紙を受け取るのがとても嬉しかった。
だが、今回は来ないのだ。彼女からの手紙が。
「まさか、あのドレスの返事か?」
「……そう」
「確認だけどさ、婚約者殿はいつ到着したんだ?」
「三日前」
「ほーん……」
「……なんだよ」
「いやまあ、とっくに目にしてる頃だよな」
「ああ」
ユフィールが領地にいるのならまだしも、同じ王都に滞在し手紙を出せばその日のうちに届く距離だ。だと言うのになんの返事もなく、僕はひどく気落ちしていた。大人げないのはわかっているのだが、どうしてもうまく感情を抑えられない。
ライアンは頭の後ろで腕を組むと「ふうん」とまた一人でわかったような反応をする。
「手紙は?」
「出してる」
「ほーん……」
「だから何だよ」
ライアンの意味深な相槌にイライラする。「まあまあ」と彼はポン、と僕の肩に手を置いた。なんだかそれが無性に腹立たしい。やはり、言わなければよかった。
「整理すると、婚約者殿にドレスと手紙を出したがいつものように返事がなくイラついていると」
「今の整理する必要あったか?」
「なんなら道中からでも手紙が欲しかったのになかったから、完全に婚約者殿手紙欠乏症状が出ていると、そういうことだな」
肩に乗せられた手を苛立ち紛れに払いのけようとすると、ライアンは素早く手を引っ込めた。そのニヤニヤした顔が腹立たしい。
「それは、お前の心が狭すぎ」
「は?」
「いやいやいや、だって到着したの三日前だろ? 疲れてるかもしんねぇじゃん。どうせすぐ会えるんだし、それくらい待てよ」
「わかってる」
「ホントかよ」
わかってる。わかってはいるんだ。
僕の両親のことだ、ユフィールが来るからと張り切っているに違いないし、逆に不器用な接し方しかできずユフィールを困らせているかもしれない。
妹のサーシャだって義理とは言え姉ができるのを楽しみにしていたのに、近頃はなんだか反抗的だ。どうもあまり感じのよくない令嬢方と交流があるらしい。
だが心配事はそれだけではない。
(……やり過ぎただろうか)
ユフィールはドレスの持つ意味に気が付いただろうか。
一緒に送った装飾品に、戸惑っただろうか。
僕の送った手紙を読んで、どう思っただろうか。
(でも僕は、やっと成人する。いつまでもお行儀のいい弟のような存在では駄目なんだ)
『――約束ですよ』
七年前のあの約束を、僕はやっと果たすことができる。そのために準備をしてきたんだから。
「……今夜、つけている護衛騎士に報告させる」
「なんつうか、すげぇ執着なのなぁ」
「なんとでも言え」
「いや、呆れてんじゃなくて羨ましいと思ってさ」
その言葉に視線をライアンに向けると、彼は机に肘をつき僕をじっと観察していた。その表情は意外にも真剣だ。
「一度しか会ったことのない七歳も上の婚約者に、どうしてそんなに一途でいられるんだろうなって思ってさ」
「僕の婚約者に興味を持つなよ」
「いや、いろんな意味で興味あるけど」
「駄目だ」
「だから心狭すぎだって」
今度こそライアンは呆れた声を出した。
「そういう一途さが令嬢方にバレたら、もっと喜ばれんだぞ」
「ライアン、何を言っているのか理解できないんだけど」
「一途通り越して執着だけどな。執着のほうがモテるのかな」
「勝手に言ってろ」
時計を確認し、立ち上がる。
ライアンはそんな僕にひらりと手を振って、また自分のベッドで横になり本を眺めだした。
他人になんと言われようと僕には関係ない。
僕の世界は、ユフィールを中心に回っているのだ。
僕は寮の一室を出て、騎士を呼び寄せた夜のラウンジへと向かった。