『――白橋のせいだって』
その言葉で、ふと意識が戻った。
(……は? 何、ゆふセンセの話?)
目の前で、ウチの制服着た女子が二人ででかい声出して話してる。わざと、聞かせるように。
『アイツ、高槻君のことめっちゃストーカーしてたとか』
『ゲエ! きっも何ソレ』
『ババアのくせにイタすぎん』
『イタイだけならまだしもさあ、高槻君怪我したって、責任問題じゃんね』
『なんでアイツ来れんの? 年取ると不感症なワケ?』
『マジそれ意味違うから』
ゲラゲラ笑う女子生徒のその先に、ゆふセンセがいる。
(おい! なんも知らねえくせに勝手なこと言うなよ!)
腕を振ってみても何も起こらない。身体が動かない。
違う、これは俺の視線しかない。
俺、見てるだけだ。映画みたいに映像が流れていく。
薄暗い玄関でゆふセンセが靴箱を開けると、ざあっと靴箱から砂や石ころが溢れた。ゆふセンセの上靴が砂に汚れていく。
(センセ! ゆふセンセ!)
俺は一生懸命叫んでるのに、ゆふセンセは気がつかない。遠くで誰かの甲高い笑い声が聞こえた。
しばらくぼんやりと足元を見つめたまま、ゆふセンセはそこに立ち尽くしていた。
『白橋先生、ちょっと』
朝の光が眩しい職員室で、ゆふセンセが教頭に呼ばれた。青い顔をしたセンセは小さく返事をすると会議室に向かう。なんか瘦せた気がする。俯いていて、顔がよく見えない。
部屋に入ると俺の担任や性格のきっつい学年主任や、なんかいろいろセンセーたちがいて、みんな一斉にゆふセンセを見た。穴みたいな目だ。
『――今朝、高槻君が亡くなったそうです』
ゆふセンセが小さく揺れた。
『あなたの実習、明日までだけど今日はもう帰りなさい。明日も、しんどいだろうから休んでいいから』
『……わたし』
『実習は最後までやったってことでいいから』
『それじゃなくても生徒たちになんて言われてんの? 舐められて、まともに授業もできてないでしょう』
『これからいろいろ対応しないと駄目だし、悪いけど白橋先生に構ってる暇はないんだよ、こっちも』
『すみません……』
『彼は人気だったから、ショックを受ける生徒は多そうですよ』
『スクールカウンセラーに連絡した?』
『メディア対応ありますかね?』
『いや、帰宅途中の交通事故で事件なわけではないから』
『でも彼人気だから。SNSで結構この話出回ってますよ』
『面倒だなあ~』
何こいつら、ねえゆふセンセ、こいつらの話なんて聞いちゃだめだよ! ねえ!
センセは何もしてない! 何も悪くないよ!
『ゆふ先生』
玄関で冬靴に履き替え大きな鞄を手にしたゆふセンセに、田中センセーが声を掛けた。
ゆふセンセの目標にしてるセンセーって、田中センセーでしょ。俺わかるよ、この人いい人だけどさ、なんでゆふセンセのこと助けてくれないの。なんで黙ってんの。
『お世話になりました』
『……何もしてあげられなくて済まない』
ゆふセンセは小さく首を振る。
『――先生、奥様はお元気ですか?』
『ああ、うん……今日もこれから病院に行くんだよ。道も悪いからね、僕が送ってやらなくちゃいけない』
『どうか、お大事にしてください』
『……ありがとう』
『田中先生』
ゆふセンセはそこで、やっと俯いていた顔を上げた。
久しぶりに見るセンセの顔。
白くて、今にも雪みたいに溶けてしまいそうで、そこには何の感情も読み取れない。
『私、先生みたいになるのは無理みたいです』
そう言ってゆふセンセは、小さく笑った。
笑うように泣いたのかもしれない。
『――ねえ、アンタが白橋ゆふ?』
帰り道、辺りは雪が積もりすっかり雪景色に様変わりしていた。
大きな荷物を持ったゆふセンセに声がかけられて、センセはのろのろと振り向いた。
学校がもう始まってるこの時間、周囲に人気はなくて、そいつが制服でそこに立ってるのは違和感しかなかった。上着も着ないでブレザー姿のそいつは、手に何か持ってる。
(なに? 手になにを持ってるんだ?)
それはカチ、と小さく音を立てた。
カチカチ、カチカチ。手の中にあるそれは、ペンケースに入っているようなものじゃなくてもっと大きくてごつい、美術室とかにある重たいカッターだ。
刃を出し入れするスライドを、カチカチ、カチカチと音を立てて出したり戻したりしている。
ゆふセンセはその手の中のものをぼんやりと見つめ、そしてそいつを見た。
そこにあるのは、何もない表情。諦めでもなく、絶望でもなく、後悔でもなく。
――やめろ、
『アンタが死ねばいい』
――――やめろ!
ゆふセンセはしたいことがたくさんあった。夢もあって、キラキラしてた。
優しくて、でもちょっと人見知りなとこもあって、なんかかわいくて、肉まんは好きだけど、甘いものはそれほどでもなくて。
TL小説が実は好きだったり、俺の姉ちゃんの小説も読んでた。俺に見つかって、めちゃ恥ずかしがって慌ててた。かわいい。
俺の小説、読んでくれる約束した。俺のこと、馬鹿にしたりしなかった。
ねえ、神サマ。アンタほんとにいるの?
いるならさ、これってホント酷いエンディングだよ。まじでセンスない。最悪。俺、バドエン嫌い。
俺たちが何したの。俺たちまだ死にたくないのに。
こんなの酷い、ひどすぎる、せめてゆふセンセを助けて、ねえ助けてよ。
誰か、誰か! ねえ! なんで誰もいないんだよ!
まっ白な雪に広がる黒い髪を凍らせるように、空から降る雪が覆っていく。
ゆふセンセの身体からじわじわ広がっていた赤い血が、流れるのをやめた。
『雪ってさ青空の時も降るよね。風に乗ってどこか遠いところから舞ってくるの。あれ、結構好きだな』
『えー? いつも雪降ってるの見ると文句言ってんのに?』
『青空はいいの。青と白の世界はきれいだよ』
『ふーん』
『……なに』
『いや? そっか、センセはそういう言い回しがお好みなわけだ』
『ちょっと、なにソレ!』
『なんつうか、執筆の参考に?』
『媚び売った文章はすぐわかるからね』
『ちょ、言い方! 厳しくね?』
『頑張って、楽しみにしてる~』
『急にプレッシャー!』
ねえセンセ、最後に見た景色は何?
ねえ、俺のこと見えてる? センセ、声聞かせてよ。俺も一緒に行くからさ、どこで待ってたらいいの。一人にしないよ、大丈夫。一緒なら夜道も怖くないでしょ。
一緒に行ける? ここじゃなくても、どこかでまた楽しく話せる? 一緒にいられる?
また、笑ってくれる?
ぼんやりと空を見上げるセンセの瞳を覗いて、俺はゆふセンセの瞳から光が失われていくのを、ただ見つめ続けた。
――たぶん俺は、ずっと、泣いていたと思う。