「……ユフィール」
そっと、僕の胸に顔を埋め泣き続ける彼女の背中を撫でる。
前世を思い出してからというもの、僕は毎朝、起きるたびに胸が苦しくてベッドの上で一人、震え泣いていた。
何もできない後悔に襲われて、叫びだしたいほど苦しかった。
繰り返し見る悪夢のような夢、記憶。優しく心が温まる夢かと思えば、突然悪夢に突き落とされる。ただ夢を見るだけの僕には何もできなくて、無力感に襲われて何日もなにも食べられず泣き続けた。眠るのが怖くて一晩中屋敷を歩き回り、朝焼けを見たり冬の庭へ出たりした。
それでも繰り返される、悪夢、高槻レンの後悔と怒り、絶望。
『素敵……! これ、どちらの棚に置いてありますか?』
あの日書店で出会った
彼女は間違いなく、ゆふセンセの生まれ変わりだった。
『ご親切に、ありがとうございます。見てみますわ』
(――また会いたい)
そう思ったのは僕なのか、俺なのか。
今世にはユフィールがいる。生まれ変わった彼女が、生きて、暮らしている。
なんとかまた今世の彼女に会いたくて、とにかく今を幸せに生きているか、それだけでも確認したくて、必死にあの日書店で出会ったユフィールを探した。
それは今を生きる僕の、よすがだった。
「――あれは本当に、ひどい夢だったんです。悔しいけど僕たちは幸せになれなかった。あの先に夢も希望も確かにあったのに、叶わなかった。それはもう、今さら誰のせいでもない」
彼女の髪に鼻先を埋め、すうっと息を吸い込む。花のような、けれど落ち着いた香りに乗って、雪の匂いがした。
「……一緒に幸せになりましょう。僕たちはそのためにこの世界で生まれ変わって、今こうして一緒にいるんだから。僕はそのために力をつけたんですよ?」
顔を上げようとする気配を感じて、抱きしめていた腕の力を緩める。泣き腫らした顔を見られたくないのか、彼女は顔を伏せたまま鼻にかかる声で僕の名を呼んだ。
「……アレク、さま」
「はい」
「アレク様」
「……ん?」
そっと赤く染まる頬に掌を当てると、ふうっと小さく息を吐き出し濡れた睫毛を伏せる。僕の手に手を重ねて、まるで小さく甘えるように頬を寄せると、閉じた瞳からまたひとつ、ぽろりと雫が落ちた。
「……私が最後に見たのは、――君だったよ、高槻君」
囁くように、吐息と共に彼女の唇から零れ落ちたその名前。
「――ゆふセンセ」
――助けたかった、助かりたかった。
そうしたら、あの先で僕たちを待つものはきっと違ったはずだ。
夢も希望も全て打ち砕いてしまったあの悪夢みたいな前世は、けれど、僕たちをこうしてまた引き合わせた。
これが、答えなのか?
この出会いが、この現実が、神サマ、アンタの考えたエンディング?
ユフィールと出会ってから、前世を思い出してからずっと僕の中にある、高槻レンの絶望。やり場のない怒り、後悔、悲しみがずっと燻ぶり続けている。それを、この瞬間にすべて過去のものにしろというのか?
ユフィールのひんやりと冷たい指が僕の頬を撫でた。その指先は濡れている。人差し指の背でそっと僕の目許をなぞり、そして両手で僕の頬を包み込んだ。
「私を見つけてくれてありがとう」
「……、僕は」
「気がつかなくてごめんなさい」
「……っ」
涙が零れたのはいつ以来だろう。
ユフィールを見つけて、ユフィールに会いたくて、がむしゃらに自分を鍛えて強くなって、何者よりも強くなって、今度こそ彼女を失わないと心に決めた。その日から、僕はあの夢を見ても泣くことはなかったのに。
「高槻君」
そっと優しく唇に落とされる、触れるだけの優しいキス。甘い香り、ひんやり冷たい雪の匂い。
ぽろぽろと蜂蜜色の宝石から零れる優しい涙。
すぐ目の前で優しくふわりと笑うのはユフィールと、ゆふセンセ。
「……ゆふセンセ」
ぎゅうっと強く彼女を抱き締めると、彼女の手が俺の背中に回り抱きしめ返す。
「うん」
「……っ、たすけ、らんなくて……」
「ううん。最後は、そばにいてくれたでしょう」
「俺、……」
「ちゃんと見てたよ。君の顔、見てた」
「……一人にして、ごめん」
「大丈夫。そばにいるのがわかったから、怖くなかった」
ぼろぼろと涙がこぼれる。伝えたいことはたくさんあるのに、上手く言葉が出てこない。人目も憚らず、ましてや好きな人の前でこんな情けない姿を見せるなんて。
かっこ悪いけど、でももう限界だったんだ。俺は限界だった。
あの苦しみに飲み込まれて、俺はもう一人で立っていられなかった。
「……会いたかった」
「うん」
「いっぱい、話したいって、」
「うん、私も」
「……っ、ごめん、俺のせいで」
彼女の手が、俺の背中を大きく撫で、髪を撫でる。
「誰も悪くない。そうでしょう?」
――ああ、本当に。
「……高槻君、一緒に来てくれてありがとう」
『――一人にしないよ、大丈夫。一緒なら夜道も怖くないでしょ。
一緒に行ける? ここじゃなくても、どこかでまた楽しく話せる? 一緒にいられる? また、笑ってくれる?』
それは俺の、最後の願い、心残り。
それを今は叶えられるかもしれない。
「――ユフィール」
「はい」
「今度こそ、僕と、一緒に生きましょう」
「……はい、アレク様」
彼女の肩が濡れていくのを、僕は、止められなかった。
――神サマ。
アンタも大概、意地が悪いと思うよ。
高槻レンが、遠くで笑いながら悪態をついた。