「つ、疲れたわ……」
まずはゆっくり休みなさいと、夫人の言葉に甘え応接室から部屋へ戻った。
ぐったりとソファに腰かけ、突っ伏してしまいたいほど身体が重いことを実感する。
「あ、あの、お嬢様……」
アナがもじもじと近づいてきた。さっきまであんなに侯爵家の方々と普通に話していたのに、今はもう侍女の顔になっている。そんなアナに、なんだか毒気を抜かれたような気持ちになり、ふふっと笑ってしまった。
「……いつ、私がゆふだとわかったの?」
前世で一度も会ったことがない私に、アナはどうして気がついたのだろう。
「気がついたと言いますか……はじめてお屋敷でお嬢様にごあいさつをした時に、約束を思い出したんです」
「約束?」
「はい。レンに言われた、サイン本を渡すという約束です」
「約束って、それ……」
実習最後の日に、私が買った本にサインをくれるという約束だ。それを忘れ、てっきり高槻レンの書いた小説を読む約束のことだと思ってしまったのだ。
「なるほど……」
もうそれしか言葉が出ない。疲れて働かない頭で、果たして私は正しく理解できているのかしら。
「……あの本、結局読めないまま高槻君に渡してしまったわ」
「そうなんです、だから!」
ぐいっとアナがまた一歩前に出て緑の本を私に差し出した。もうそれを見ても恥ずかしさを感じない。さっき散々話題に上ってしまったのだもの。しかもなぜか閣下まで中身を知っているご様子だった。なぜなの?
「これがあの本です!」
「え?」
「私が前世で書いた本、あれをこちらでも読めるように書いたものなんです!」
鼻息荒く目を輝かせて言うアナにぐいぐいと押し付けられ、半ば強制的にその本を受け取る。もう一度表紙を開いて見つめる、そこに書かれた懐かしい日本語。
なんとなくジワリと心に沁みた。本当に、サイン本だわ。
「お嬢様が倒れた時に確信しました。明らかにこの本を捲って動揺してらしたので。そうすると婚約者様は、絶対にレンだなって。あの婚約者様のお嬢様に対する執着は間違いないって思いました」
「執着」
だから、早く私たちがお互いに気がついてほしくてあのカードを書いたのだそうだ。
「前世のことを匂わせたら、婚約者様がレンだってわかるのではないかと思って」
「匂わせ……」
拳を握りしめ熱弁するアナを見て、なんだか疲労が増した気がする。
「もしかして、私が倒れた時にわざとこの本を紛れ込ませたの?」
「そうですね!」
まるでよく気がついてくれた、と言わんばかりのアナに、もう笑うしかない。疲れているせいか一度笑い出すと、なんだかずっと笑いが止まらなくなる。
ちいさく身体を揺らしながら笑う私を不思議そうに見ながら、アナは改まり背筋を伸ばした。
「……私の知っている二人の繋がりはTL小説だから、この本とカードで何のことかわかるかなって……少しでも二人のお手伝いができればと思ったんです。でもまさか、それがお嬢様を苦しめることになるなんて」
じわりとまた涙を浮かべ、本当に申し訳ありませんと深々と頭を下げるアナ。
小鳥遊アンさんもまた、前世で私たちのことを気にかけてくれていたのかもしれない。
「……貴女にとって、前世の記憶は辛いものだけではないのね。こうして本を書いて、今を楽しんで生きてる」
私たちも、そうしたらいい。アレク様の言っていたように、今の私が幸せになればいいのだ。
辛い過去は過去に置いて、今を幸せに過ごせるように。アレク様は私にそうしてほしかったのだ。
「……アナ、アレク様に伝言を頼んでもいい?」
テーブルに置かれた少し草臥れた箱。これはアナが必死に守ってくれた、アレク様への贈り物。
「約束とおり、晩餐を楽しみましょうって」
アナは顔を上げ嬉しそうに返事をすると、急いでアレク様のいる部屋へ向かった。
*
コンコン、と扉がノックされ、アナが対応する。
なんだか緊張してしまって、思わずソファから立ち上がった。今夜の格好はおかしくないだろうか。侯爵夫妻との晩餐よりもはるかに緊張する。
「ユフィール」
ライトグレーのジャケットに濃紺のコートを羽織ったアレク様がすぐに入室した。
アナが私とアレク様の色を揃えようと、事前に使用人の伝手で仕入れたという外出着の情報。
現れたその姿はアナの言ったとおりの色合いで、どう見ても私とお揃いだ。所謂、ペアルックというもの。
(うわ、恥ずかしい……)
前世でもペアルックなんてしたことがない。
そしてアレク様は、揃いの色のドレスを纏った私を見てピタリと固まった。
……やりすぎただろうか。
顔が熱い。お願いだから何か言ってほしい!
「あ、あの、アレク様」
「……ユフィール、とてもきれいです」
アレク様は目許を赤く染めて私の手を取り指先に口付けを落とす。
顔がよすぎてどう反応したらいいのかわからない……!
「あ、アレク様も、とても素敵です」
「ありがとう。……もしかして、揃えてくれた?」
「あ、あの」
恥ずかしくなり俯くと、ふふっと笑い声が頭上から降ってきてふわりと抱きしめられる。
「嬉しい。ありがとうございます、ユフィール」
(人前でこういうこと! 慣れていないんですってば!)
使用人の視線が集中している気がする。
アレク様は嬉しそうに私の手を取りエスコートをすると、屋敷前に停めた馬車へ乗り込んだ。
(ダメよ、慣れなくては……!)
いい笑顔のアナを始め、使用人たちの生ぬるい笑顔の見送りを受けて、私たちを乗せた馬車は王都の中心部へと走り出した。