「今日はお疲れだと思ったのですが、大丈夫ですか?」
馬車の中でアレク様が心配そうに私を見る。向かいに座っているだけだというのにその美しい姿に心臓がうるさい。
彼が卒業してからこうしてまともに話す機会をやっと手に入れたのは、本当にこの二、三日の話だ。手紙のやり取りで気心の知れた仲だとしても、実際に会って話すのは、全く違う緊張を孕んでいる。
「だ、大丈夫です。今はお腹が空いているくらいですもの」
「ふふ、そうですか、では食事を楽しみましょう」
私に伝えたかったことを言えて、心なしかアレク様の強張りが取れた気がする。自然体の彼の姿に、大人の男性なのだと知らされた今朝のことを思い出し、ドキドキする。日中の騒ぎですっかり忘れていたけれど、今朝を思い出すと顔から火が出そうだ。
なんて濃厚な一日なんだろう。あれは、今朝の話なんだわ!
「あ、あの、ライアン様は大丈夫ですか」
「ええ。先ほど騎士団の詰め所へ顔を出して、捕えた男たちを騎士団に引き渡しました。事件性も高いので、今後は捜査も厳しくなるでしょう。ボルド伯爵の船や屋敷もすでに取り押さえていると言いますから、後は父上に任せます」
今回私の誘拐を企てたのは、ボルド伯爵という新興貴族だった。アレク様と年齢の近い自分の娘を婚約者にするため、侯爵家の身内になんとしてもなりたいため、没落寸前の貴族の最後の悪あがきだとアナが力説していた。
そして、橋を崩落させたのも伯爵の仕業らしいとアレク様から聞いた。
崩落事故はかなり大規模なものだったけれど、崩落したのは常時人々が渡る橋ではなく、跳ね橋だった。日中は船の航行のため橋は上がった状態で、その時も通行人はいなかったらしい。それを聞き、本当に膝の力が抜けた。
伯爵は資材の調達にいち早く対応できるよう自分の商会に準備をさせていて、ただ無暗に騎士たちの気を引こうとしただけではないらしいことがわかっている。これで儲けようと考えたのだろう。当然、商会からの資材調達は却下され、余った資材をどう捌くか苦しい立場に立つ。恐らく安く買い叩かれて利益が出ることなく終わると、アレク様は話していた。
そして、私たちの護衛についていた侯爵家の騎士たちのおかげで崩落現場ではけが人も少なく、巻き添えにあった船の救出作業も速やかに行えたそうだけれど、私たちを見失った判断ミスは看過できないとして、彼らはしばらく騎士団で厳しい訓練を受けることになったそうだ。もちろん、ハンス以外。
そして、サーシャ様。
話を聞くと、やはりサーシャ様は伯爵令嬢から気晴らしにカフェへ行こうと誘われ、こっそり街へ出たのだそうだ。屋敷の近くまで迎えに来た令嬢の馬車で街まで出たらしい。
(ボルド伯爵の令嬢って、あのガゼボで会った令嬢だわ)
美しく華やかで社交界でも有名な彼女は、サーシャ様の憧れだった。
そんな彼女がサーシャ様を特別扱いし、閉じ込められているサーシャ様にかわいそうだと寄り添えば、サーシャ様は簡単に気持ちが傾いてしまったのだろう。
そしてカフェで二人でお茶をしていると、今若い貴族令嬢の間で流行っているという、一人で街に立ち男性に声を掛けられるか、という遊びをしようと誘われたのだという。
それを聞いた時、本当に思わず「は?」と声が出た。呆れて開いた口が塞がらないとはあのことだ。アレク様もものすごく眉間に皺を寄せていた。
ナンパ待ちってこと? 今どきの令嬢はそんなスリルを求ているらしい。
(子供の遊びだわ。何が楽しいのか……)
大人の目を盗むことに楽しさを覚える年頃と言えばそうだけれど、今回はそこに大人の悪意があった。
私が出かけるという情報を仕入れた伯爵は、娘を唆しサーシャ様を街に立たせる遊びを、私がいる店の前でやったのだ。
もちろん私がいるなんて知らなかったサーシャ様は、こんな事態を招いたことに、ずいぶんと自分を責めている。目の前でハンスが怪我を負い、恐ろしい思いをしたのだ。自分を取り戻すのに少し時間がかかるだろう。
そして伯爵令嬢は、父に言われたことをしただけだと主張しているらしいけれど、私の誘拐に加担したことで父親同様に捜査対象となっている。今後、社交界に戻るのは難しいだろうとアレク様は言っていた。
「サーシャ様は大丈夫ですか」
私の言葉にアレク様は苦笑した。
「ハンスが目の前で怪我を負いましたから。自分の浅はかさを知りすっかり落ち込んでいますが、ここからどう変わるか。それこそがサーシャの償いになるでしょうね」
「……ふふ」
「なんです?」
アレク様の言葉についくすくすと笑うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
「いいえ、なんだか……教師みたいだなと思って」
「僕が?」
「私が出会ったことのある素敵な先生は、失敗を責めない人でした。いつだってそこからどう挽回するかを教えてくれたんです。そこで終わりではないと、いつも笑顔で前に進むことを示してくれました」
「……それが、ゆふセンセの憧れの先生?」
落ち着いた声に顔を上げると、柔らかく瞳を細めたアレク様が私をじっと見つめている。夕日に照らされたその瞳は、いつか見たあの複雑な瞳の色に似ていて、唐突に彼を……高槻レンを、強く感じた。
「……田中先生は、素敵な人でした。奥様が身体を壊してからはあまり教壇に立つことはなかったけれど」
「気がつきましたか?」
「え?」
「彼に」
アレク様の問答のような言葉に首を傾げる。彼?
「記憶があるかはわかりませんが、恐らく彼も貴女を救いたかった一人だったんですよ。今はそれができて、少しスッキリした顔をしている」
「……まさか、――ハンス?」
そういうと、アレク様は、ははっと声を上げて笑った。
「みんな貴女が大事なんです、ユフィール」
アレク様のその言葉に、せっかく施してもらったお化粧が落ちそうなくらい、私は涙腺が緩んでしまった。
馬車がレストランに到着しても、しばらく涙が収まるまで降りることができなくて、けれどアレク様はただ優しく、私の隣で手を握り続けてくれた。