フェルディナンド公爵との婚約を結び、公爵家に迎え入れられてから数日が経った。
私――ノインは、広大な公爵邸での新生活に、戸惑いながらも少しずつ慣れ始めている。伯爵家で“みそっかす”扱いされていた頃とは比べものにならないほど、ここでは丁寧な扱いを受けていた。とはいえ、当主である公爵の姿はめったに見ることがない。彼は早朝から執務室にこもり、領地経営や王都からの依頼業務などに忙殺されているらしい。
私の方はというと、専属の侍女マリオンや、ラドクリフ執事に導かれながら、まずは屋敷内を把握することから始めた。庭園を散策し、図書室を訪ね、音楽室のグランドピアノに驚き、使用人たちの仕事ぶりを見学する――そんな日々を重ねながら、慣れない貴族生活の息苦しさと、それでも孤児院や伯爵家よりはるかに自由な空気の間で、どこか浮足立った気分を抱いていた。
ある日の午後、私は侍女マリオンとともに屋敷の廊下を歩いていた。彫刻の施された柱や、美しいタペストリーが飾られた壁を眺めながら、なんとも言えない感慨に浸る。
「ノイン様、そちらは当主の私室へ続く廊下です。この先は護衛も多く、許可なしには立ち入れません。……とはいえ、今のノイン様は公爵閣下の婚約者ですから、通行を咎められることは少ないかと。」
マリオンの丁寧な口調に、私は少しだけ気圧される。気を抜くと「え、えっと……」と孤児院時代の小声に戻ってしまいそうだが、何とかがんばって貴族らしく振る舞わなければ。
「そう……なの。ありがとう、マリオン。……私、公爵閣下にお会いしたいのだけれど、今は執務中よね?」
「あいにく、今はとてもお忙しくされております。まだしばらくは執務室に籠もりきりになるかと。……ただ、夕方には一度、中庭で休憩を取られるご予定だと伺っております。そのときにお声がけしてみるのはいかがでしょう?」
私は小さく頷く。フェルディナンド公爵との会話は、婚約の儀以来、ほとんどしていない。その後、たまに廊下ですれ違ったり、使用人越しに指示を受けたりはするのだが、ゆっくり言葉を交わす機会はないまま日々が過ぎていた。
(……もう少し、きちんと公爵閣下と向き合いたいのに。)
そんな焦りにも似た感情を抱きつつ、私は侍女の案内で広間の方へ向かう。途中、ひとりの若い騎士がこちらに歩み寄ってきた。私と同じくらいの年齢だろうか、短く切り揃えた金髪が印象的な青年で、公爵の親衛隊の一人らしい。
「ノイン様……こんにちは。えっと、その……初めまして、ですね。俺、親衛隊のロイと申します。閣下から、『ノイン様がお困りの際は手助けをしろ』とのお達しがあって……あの、何かお力になれることがあったら、いつでも声をかけてくださいね。」
照れ臭そうに頭を下げるロイを見て、私はほっとする。使用人や騎士の中には、フェルディナンド公爵に仕えているがゆえ、どこか冷徹な雰囲気をまとっている人も多い。だが、ロイは素直で親しみやすそうに見える。
「ありがとう、ロイさん。……慣れないことばかりで、正直戸惑ってるんです。誰か気軽に話せる人がいるのは助かります……。」
そう言うと、ロイは照れ隠しのように笑みを浮かべて「は、はい!」と背筋を伸ばし、すぐに踵を返して立ち去った。
マリオンはそんな様子を横目に見つつ、小さく微笑む。
「ロイはまだ若いですが、とても忠誠心の厚い騎士です。公爵閣下にも信頼されていて、何かと重用されております。……よろしければ、何か頼みごとをしてみるのもいいかもしれませんね。」
私は再び「そうね……」とうなずく。少しずつだが、公爵家の空気に慣れ、周囲の人々とも関係を築けるようになりつつある――そんな手応えを感じる瞬間でもあった。
――ところが、その穏やかな日々は、突然の知らせによって大きく揺さぶられることになる。
翌日の昼下がり、私が自室で読書をしていると、ドアを控えめにノックする音がした。入ってきたのはラドクリフ執事だ。いつも落ち着いた彼だが、今日はどこか険しい表情をしている。
「ノイン様、失礼いたします。……実は、先ほど王都からの使者が到着いたしまして、エドラー伯爵ご一家がこちらを訪問されるということになりました。公爵閣下も了承なさっています。……おそらく、午後のうちに到着される見通しです。」
「え……エドラー伯爵が……?」
私は思わず声を上げる。あの伯爵家――エミリアや伯爵夫人を含めた家族が、まさかここを訪れるなんて。婚約の儀で「用済み」と突き放したはずではなかったのか。
ラドクリフは渋い顔で続ける。
「ええ。正式な婚約を結んで以来、一度もご挨拶していないから、ぜひ見学させてほしいというのが表向きの理由のようです。しかし、伯爵様や夫人がどういう目的で来られるのか……私どもには計りかねます。公爵閣下は『好きにさせておけ』と仰っておりますが……。」
私はまるで胸をえぐられるような感覚を覚えた。エドラー家が私を訪ねてくるなんて、いい予感がまったくしない。きっとまた、冷たい言葉を浴びせられるに違いない。「化け物公爵の嫁はどんな暮らしをしているのかしら」と嘲笑を受けるのがオチだろう。
しかし、ここは公爵家だ。私が勝手に門前払いを決めるわけにもいかない。ラドクリフの話によれば、公爵閣下自身が「来るなら勝手に来させればいい」と容認しているのだから、私はそれに従うしかない。
「……わかりました。私も覚悟しておきます。ご報告、ありがとうございます。」
「かしこまりました。……万一、伯爵ご一家が無礼を働くようなことがあれば、遠慮なく私どもを頼ってください。ノイン様はもう、エドラー家の持ち物ではございませんから。」
ラドクリフはそう言って一礼し、去っていく。――「もう持ち物ではない」。確かにその通りだが、私の中ではまだ伯爵家とのしがらみが消えてはいない。あんなにひどい扱いを受けていたのに、私はいまだに彼らを恐れている自分がいるのだ。
そして、午後になって――予想どおり、エドラー伯爵たちは大勢の従者を引き連れ、フェルディナンド公爵邸の門をくぐった。伯爵夫人やエミリアも馬車から降り立ち、庭先で待ち構えていた侍女や騎士たちを見回す。
「まあ、こんなに立派な庭園なのね……うちの伯爵家より広いんじゃない?」
伯爵夫人はちらりと嘲笑を浮かべ、エミリアも同じように鼻で笑っている。まるで「こんな化け物公爵に仕えている使用人たちも、大変でしょうに」と言わんばかりだ。
奥へ案内された伯爵家の一行は、応接室でフェルディナンド公爵を待つことになった。案内役を務めるラドクリフ執事に対しても、伯爵夫人は妙に上から目線の態度を取っている。「あなた、この屋敷で一番偉い使用人なんですって? ふふ、そう大変でもなさそうね」などと口走り、ラドクリフを困惑させていた。
私は応接室には入らず、少し離れた場所で様子を見守る。公爵閣下は今、執務を終えてこちらに向かっているそうだ。いずれ面と向かうことは避けられないが、正直に言って、エドラー家の人々と再会するのは恐ろしくてしかたがない。
「……ノイン様、大丈夫ですか?」
心配そうに声をかけてくれたのはマリオンだった。私の手が小刻みに震えているのを見て、そっと肩に手を置いてくれる。
「だ、大丈夫……平気よ。ありがとう、マリオン。」
震える声で答えたところで、廊下の向こうからフェルディナンド公爵が現れた。いつもと同じく漆黒のマントをまとい、角と鱗を隠すことなく堂々と歩いてくる。その姿に思わず目を奪われる。やはり“化け物”と恐れられる容姿だが、どこか威風堂々とした佇まいには品格を感じるのだ。
公爵は私に近づくと、視線を落として静かに言う。
「ノイン。……行くぞ。お前を伯爵家の人間に再び好き勝手言わせるつもりはない。」
低く落ち着いた声音には、確かな決意が滲んでいるように聞こえた。私は一瞬息を呑む。――まるで“お前を守る”と宣言しているかのように思えたからだ。
「はい……」
それだけを答えるのが精いっぱいだったが、胸の奥で何かが温かく波打つのを感じた。公爵の言葉が心強い。私が一人で怯えているわけではないのだ……と思えるだけで、少しだけ足が軽くなった気がした。
公爵とともに応接室へ入ると、そこにはエドラー伯爵夫人とエミリア、そして伯爵本人が並んで座っていた。奥には、使用人や従者が控えている。
伯爵夫人は公爵の姿を見て一瞬ビクリとしたが、すぐに取り繕うように微笑む。
「まあ、公爵閣下。お久しぶりでございますわ。こちらにお呼びいただき、光栄です。」
「呼んだ覚えはないが……勝手に来ただけだろう?」
公爵の冷たい言葉に、夫人の微笑みがひきつる。だが、すぐに愛想笑いに変えて言葉を続ける。
「まあまあ、ご冗談を。……ところで、ノインはどこに……。あら、そこにいたのね。元気かしら?」
さも心配しているような口調だが、その目には私への軽蔑と嘲笑が見え隠れしている。私が戸惑っていると、公爵が私の肩を引き寄せるように前に出す。
「ここにいる。今はもう、エドラー伯爵家の人間ではない。わたしの婚約者だ。……お前たちがどういう目的で来たのか知らないが、ノインを傷つけるような言動は許さない。」
公爵の強い宣言に、エミリアが露骨に嫌悪の色を浮かべる。
「……『傷つける』だなんて、そんな。私たちはノインの様子を見に来ただけですわ。……そもそも、彼女はウチの養女だったんですもの。しっかりと“責任”を持って送り出したのですから、どんな暮らしをしているか確認する義務があるのよ。」
嘘だ。そんなことを考える人たちではない。私は奥歯を噛みしめながら、何とか平静を保つ。すると、エミリアが私に向き直り、わざとらしく頭の先からつま先まで見下ろすように眺めてくる。
「ノイン、ちょっと見ないうちに……随分といい暮らしをしているみたいねぇ。ほら、その服なんか、以前の古びたドレスとは大違いじゃない?」
言われて思わずドレスの裾を握りしめる。あれから公爵の指示で仕立て直してもらったドレスを身につけているのだが、当の私は“こんなに綺麗な服を着ていいのだろうか”と未だに落ち着かない。エミリアはそれを見透かしたかのように、嫌味な笑みを浮かべてささやいた。
「でも、結局は“化け物”の花嫁なんでしょう? 怖くないの? 夜も眠れないんじゃない?」
伯爵夫人も追従するように口を開く。
「そうですわよねえ。何しろ、あの角や鱗……。私だったら恐ろしくて、とても一緒に暮らせませんわ。ノインは小さい頃から苦労していたから、多少のことには慣れているのかもしれないけれど。」
あからさまな悪意に、私は反論もできず俯く。伯爵や夫人の言うことは当然不愉快だが、角や鱗が恐ろしいのは事実。それを真正面から否定するだけの勇気が出ない。
――だが、代わりにフェルディナンド公爵が毅然とした声をあげた。
「……貴様ら。わたしの外見をどう思おうが勝手だが、ノインを侮辱することは許さない。既にこの娘は正式な儀式を経て、わたしの婚約者となった。王国にも届け出済みだ。」
伯爵夫人はひるむことなく、卑屈な笑みを浮かべる。
「ええ、存じておりますわ。だからこそ、こうして“ご挨拶”に来たのですよ。私たちだって、ノインがどれほどご立派に嫁いでいるか、確かめておきたいのですもの。……ただ、この婚約がいつまで続くかはわかりませんわよね?」
「何を言う……?」
公爵が眉をひそめると、エミリアが横から口を挟む。
「だって、化け物と孤児の婚約でしょ? 世間体が悪いし、もし閣下が正気に戻ったら、すぐに破棄なさるかもしれないじゃない。ふふ……」
無遠慮な言葉に、私の心がざわつく。伯爵家の人々からすれば、私と公爵の関係なんて“いつ崩れてもおかしくない”と思っているのだろう。彼ら自身が“身代わり”として送り込んだわけだから、自分たちに火の粉が降りかからなければそれでいいのだ。
――こんな屈辱を突きつけられても、私は一言も言い返せないのか。そう思うと悔しさが込み上げてくる。だが、公爵は私の手を取るようにして、やわらかく引き寄せた。
「……正気に戻ったら破棄などと、なぜ貴様らが決めつける? わたしが選んだのだ。たとえ世間がどう言おうと、ノインを手放すつもりはない。」
その言葉は静かだが、明確な宣言だった。胸が熱くなる。私がきつく唇を結んだまま俯くと、エミリアは鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「はっ、言ってくれますわね。まあ、勝手にどうぞ。私たちはただ見学に来ただけなんですから。ところで、公爵閣下のお屋敷を案内していただけませんか? せっかくですし、どういうところでノインが暮らしているのか、見てみたいんです。……別に、変な意味ではありませんわよ?」
変な意味に決まっている。そう思うが、ここで断れば「やましいことでもあるのか」と揚げ足を取られるのが目に見えている。公爵は短く舌打ちし、ラドクリフ執事に目をやってうなずいた。
「……仕方ない。ラドクリフ、案内を頼む。ただし、立ち入りを許可しない区域には絶対に近づかせるな。」
「かしこまりました、閣下。」
こうして、エドラー伯爵家の人々は使用人たちの先導のもと、公爵家の屋敷を“見学”することになった。伯爵夫人やエミリアは口々に「あら、思ったより素敵ね」「こんな化け物屋敷にしては、ずいぶんと上品だわ」などと失礼極まりない感想を漏らす。伯爵本人はというと、ほとんど喋らず、時折眉間に皺を寄せながら屋敷の内装を眺めていた。
私と公爵は少し後ろの方から、彼らの様子を見守るように歩く。正直、胃が痛くなる思いだったが、公爵は私に「気にするな」と言うように小さく首を振ってみせた。
――しかし、その“見学”の途中、思わぬ事件が起きる。エミリアが屋敷の奥にある書斎に興味を示し、中へ入ろうとしたところで、同じく見学についてきた従者の一人が、何やら不自然な動きを見せたのだ。
私の方をちらりと見て、カバンの中から小瓶のようなものを取り出そうとしている――。その動作を、偶然私は目撃してしまった。嫌な予感が走る。あれは何か、毒薬か、あるいは呪詛に使う道具かもしれない。
「な、何してるんですか……?」
思わず声を上げると、従者はぎくりとした表情を浮かべ、私を睨みつけるようににらんだ。
「あ、いや……何でもない。これは……伯爵夫人に頼まれた薬で……」
明らかに挙動不審だ。伯爵夫人に頼まれた? 視線の端には、伯爵夫人の姿が見えるが、彼女もまた何かに気づいたのか、さっと目をそらして立ち去ろうとしている。
そこへ公爵の護衛の騎士がすばやく駆け寄り、従者の腕を掴んだ。
「おい、何を隠している? 中身を見せろ。」
従者は必死に抵抗するが、騎士の腕力に敵うはずもなく、小瓶を取り上げられてしまった。小瓶の中には黒い粉のようなものが入っている。いかにも怪しい。そして、騎士が臭いをかぐと、嫌悪感を示すように顔をしかめた。
「これは……“呪薬”じゃないか? 最悪の場合、人を狂わせる毒にもなるはずだ。公爵閣下の屋敷で、なぜこんなものを……」
騎士の声に、場が一気に凍りつく。伯爵夫人は顔色を変えず、「何かの間違いでしょ?」と取り繕うが、その態度は明らかに不自然。エミリアも目を泳がせている。
「違うわ、そんなつもりはなかったのよ。ねえ、あなたも何とか言ってちょうだい。」
夫人は従者に同調を求めるが、従者は腕を押さえつけられながら冷や汗をかいている。結局、彼は観念したように「申し訳ありません……伯爵夫人に命じられて……」と呟いた。
「何ですって?」
夫人は咄嗟に「この裏切り者!」と叫ぼうとするが、時すでに遅い。騎士は従者を取り押さえたまま、公爵に向かって膝をつく。
「閣下。この者は呪薬を持ち込んでおりました。目的は定かではありませんが、危険極まりない行為です。どうなさいますか?」
その場に居合わせた誰もが息を呑む。まさかエドラー伯爵夫人が、こんなものを用意していたのだろうか――私の頭は混乱する。周囲を見ると、伯爵本人は顔面蒼白で、「何ということだ……」と呟いている。彼も知らなかったのかもしれない。
そして、フェルディナンド公爵はゆっくりと口を開いた。
「……どうやら、わたしの屋敷で“呪薬”を使うつもりだったようだな。何を企んでいたのかは知らないが、これが重大な犯罪行為であることは確かだ。」
伯爵夫人は必死に否定しようとする。
「ま、待ってください! これは、あの……ちょっとした間違いで……」
「間違い? ならば、この呪薬を何に使うつもりだったのだ?」
「そ、それは……その……」
夫人は明らかに動揺している。「公爵家の人間に呪いをかけようとした」とはさすがに口が裂けても言えないのだろう。
エミリアも震え声で「お母様……」と何か言いかけるが、公爵の威圧感に押されて口をつぐむ。
すると、公爵は静かに私の方へ視線を向けた。
「ノイン。お前はどう思う? こいつらが何を狙ったか、わかるか?」
唐突に話を振られ、私はハッとする。かつてエドラー家で受けてきた仕打ちを考えれば、想像は容易い。きっと、私が公爵の屋敷で幸せに暮らしているのが気に食わないのだ。あるいは公爵の呪いをさらに深め、破談に持ち込もうと企んでいたのかもしれない。
(伯爵夫人たちは、公爵が呪われていると知っているし、それを利用すれば簡単に事件を起こせる……とでも思ったのかもしれない。)
私はわずかに唇を噛み、勇気を振り絞って声を出す。
「……伯爵夫人は、きっと公爵閣下の“姿”を、さらに悪化させるために……あるいは、私に危害を加えるために、この呪薬を持ち込んだんだと思います。……私が公爵家で認められているのが、面白くないんだと思います……!」
言葉にしながら、手が震えているのを自覚する。だが、ここで黙っていては何も変わらない。過去のようにいじめられ、屈服していては、自分で居場所を守ることなどできないのだ。
伯爵夫人が悲鳴のような声をあげる。
「な、何を馬鹿なことを言うの! 証拠もないのに……!」
「証拠なら、その従者が持っているだろう。“伯爵夫人に命じられた”と言ったではないか。」
公爵が冷酷なまでに言い放つ。その瞬間、従者は観念したようにさらに続ける。
「は、はい……本当です……。お嬢様(エミリア)に恥をかかせたノインが憎いとか、“化け物”公爵がさらに醜くなれば婚約が破談になるはず……とか……そんなことを言われまして……」
場がしんと静まり返る。あまりに露骨な悪意に、伯爵夫人は「違うのよ!」と叫ぶが、公爵の護衛たちが従者を押さえつけ、離さない。
伯爵本人はがっくりと肩を落とし、「お前……なんということを……」と夫人を非難する視線を向ける。
「恥をかかせたのは、娘の方ではなく、そもそもお前たちだ……。ノインを貴族らしく育てもせず、公爵家に丸投げして……そのうえ呪薬とは……。」
伯爵もまた、その醜態に唖然としている様子だ。あのエミリアですら、目に涙を浮かべながら尻込みしている。案外、エミリア自身はここまでの凶行を知らなかったのかもしれない。伯爵夫人が独断で企んだ可能性が高そうだ。
「くっ……わ、わたくしは何も……そ、そうよ、従者が勝手に……!」
必死に言い訳する夫人だが、従者が「嘘です! あなたに命じられたことは間違いありません!」と泣きそうな顔で叫ぶ。もう逃げようがない。
――すると、フェルディナンド公爵は人々を見回し、静かに口を開いた。
「呪薬の所持は重罪だ。ましてや、公爵家に持ち込むなど論外。お前たち、わかっているのか?」
静かな口調に宿る殺気めいた威圧が、伯爵夫人や従者を震え上がらせる。
「公爵閣下……ど、どうかお許しを……! わ、わたくしめは……!」
「許すかどうかは、わたしが決めることではない。王都の裁定に委ねるべきだろう。……伯爵夫人、従者をそろって連行しろ。ラドクリフ、騎士たちに命じ、こいつらを拘束したうえで王都の裁判所に送り届ける準備をせよ。」
「かしこまりました、閣下。」
護衛の騎士たちが素早く動き、伯爵夫人と従者を拘束する。伯爵夫人は悲鳴を上げ、「助けてちょうだい、伯爵!」と叫ぶが、伯爵自身も茫然自失だ。「な、なんということだ……」と頭を抱えている。
エミリアはその様子を見てパニック状態になり、「お母様! ウソよね! 私、こんなの聞いてない!」と泣き叫んでいる。もう収拾がつきそうにない。
私は胸の奥が冷えるような感覚を覚えながら、その光景を見つめていた。――あまりにもあっけない幕切れ。彼らが自滅したとしか言いようがない。
(ざまあ……という言葉で片付けてもいいのだろうか。確かに、私をここまで追い詰めた人たちが報いを受けている。だけど……。)
切なさや虚しさも混じった複雑な感情が渦巻く。使用人たちが騒然とする中、公爵は私の方へ向き直り、静かに問いかける。
「ノイン……お前はそれでも、あの伯爵夫人を許してやりたいと思うのか? わたしは、ここで刑に処するのが妥当だと思うが……。」
公爵の瞳には、私への気遣いが感じられた。たとえ重罪であっても、私が望むのなら多少の情状酌量を考える余地があるのかもしれない。
けれど、私は首を振る。
「いえ……わたしは……正直、もうあの方たちのことは怖いし……。けれど、彼らが法で裁かれるのなら、それが当然だと思います。……わたしは、何も言いません。公爵閣下の判断にお任せします。」
そう言うのが精いっぱいだった。伯爵夫人の行いを見れば、もう情けをかける気は起きない。あの人たちは、私を道具扱いしただけでなく、公爵閣下を陥れようとさえしたのだから。
公爵はわずかに微笑むように目を細め、「そうか」と頷く。ラドクリフ執事と護衛の騎士たちは、混乱する伯爵夫人や従者を淡々と連行し始めた。伯爵はひどく狼狽えていたが、公爵には逆らえず、もはやエミリアとともに追従するしかない。
「閣下、お詫び申し上げます……。わたくしの妻が、こんな……」
「……王都で裁きを受けるがいい。弁明の余地があるなら、そこで好きに言えばいいだろう。……二度とわたしの前に現れるな。」
公爵の冷たい宣告に、伯爵はもはや何も言えず、青ざめた顔のままうなだれる。エミリアも、もはや何かを言う気力すら失ったのか、涙を流しているだけだ。
こうして、エドラー伯爵家一行は、フェルディナンド公爵邸を惨めな姿で去っていった。
――エドラー家の馬車が門を出るのを確認すると、公爵は周囲の使用人に「後処理を頼む」と告げ、私を連れて奥へ向かった。人目につかない静かな回廊を抜け、しばらく歩いていると、公爵は突然足を止める。
「ノイン……お前、大丈夫か?」
低い声が、廊下にこだまする。私はあまりに多くの出来事が一度に起きて、未だ頭の整理がついていなかった。――けれど、公爵が私の顔を覗き込み、心配そうにしているのだけははっきりとわかる。
「……はい……その、ありがとうございます。公爵閣下が守ってくださったから、わたし……」
言葉に詰まって俯くと、公爵はそっと手を伸ばして私の肩を支えた。爬虫類のような鱗があるその手のひらは、最初こそ違和感があったが、今はもう慣れてきた。むしろ、不思議と安心感を覚える。
「……わたしは、ただ当然のことをしたまでだ。お前が追い詰められる必要などない。」
短く言いながら、公爵は目を伏せる。まるで、自分の外見への軽蔑が聞こえてくるのを恐れているような仕草に感じられた。だが、私は強く首を振る。
「公爵閣下……わたし、怖くありません。あなたの手……少し冷たいけれど、それでも……あたたかいと思います。」
その言葉に、公爵の瞳が僅かに揺れた。彼はなぜか少しだけ苦しそうな表情を浮かべ、口を引き結ぶ。
「……変わっているな、お前は。そんなことを言われたのは初めてだ……。」
「いえ、わたしも……初めてなんです。こうやって、誰かにちゃんと守られているのを感じるの……。」
孤児院でも、エドラー伯爵家でも、“守られている”と感じたことはなかった。むしろいつも、私がいない方がいいのではないか、と思うことばかり。けれど今は、ほんの少しだけ、「ここにいてもいい」と思える気がする。
公爵は視線をそらしながら、それでも私の肩から手を離さないまま、一つ溜息をつく。
「……わたしは、この醜い姿のせいで、幼い頃から周囲に忌み嫌われてきた。誰も近づこうとしないし、正面から対話しようともしない。呪いだとか、魔物の血だとか、好き勝手に噂されて……それでも、領地を守るためには公爵位を捨てられなかった。孤独の中で生きるしかなかったんだ。」
初めて聞く、公爵の本音のような言葉。その声には、言い知れぬ寂寥が滲んでいる。私の胸がぎゅっと痛んだ。
「……公爵閣下……」
「だが、最近、妙に心が落ち着かない。お前がここにいると……こうして話していると……少しだけ、孤独が紛れるような気がする。それが呪いの影響なのか、お前の力なのか……よくわからんがな。」
公爵が小さく嘲笑めいた微笑を浮かべる。まるで、自分でも自分の心が読めないと言わんばかりに。
私は胸の奥で何かが震えるのを感じながら、そっと彼の腕に触れる。
「あの……実は、わたし……幼い頃から、人の痛みを和らげるような力があるんじゃないかって、感じていたんです。孤児院の子が怪我をしたとき、触ると痛みが引いたって言われたりして……。だから、公爵閣下の“呪い”にも、もしかしたら……」
口にしながら、さすがに都合が良すぎる話だと思う。けれど、公爵はただ黙って私の手を見つめる。
「……あの夜、婚約の儀が終わったあと、お前が軽くわたしの手に触れたとき、少し身体が軽くなった気がしたのは確かだ。気のせいかと思っていたが……。」
意外な言葉に、私の鼓動が高まる。やはり、私の力は何らかの形で彼の“呪い”に影響を与えられるのかもしれない。根拠は薄いが、でもそう信じたくなる一瞬だった。
公爵はまるで何かを思い出すように、角の生えた頭を少し俯かせる。
「この呪いは、わたしが先祖代々受け継いでいるもの……と言われているが、実は原因ははっきりしていない。一部では“政敵がかけた強力な呪詛だ”とも言われている。……もし本当にお前の力で解けるなら、試してみるのも悪くはない。もっとも、期待はしていないがな。」
公爵の言葉はあくまで淡々としている。でも、その奥底には、私には想像もできないほどの絶望と諦めがあるのだろう。
私は、そんな彼の孤独を少しでも救ってあげられるなら、と思う。私自身も長い間、居場所を求めてさまよってきた。もし公爵を救うことができるのなら……きっと自分自身が救われることでもあるのかもしれない。
「……わかりました。よければ、わたしを閣下のそばにいさせてください。呪いを解けるかどうかはわからないけど、これからいろいろ試してみたいんです。力になりたいんです……!」
思わず熱のこもった口調になった私に、公爵は驚いたように瞬きをする。そして、かすかに笑みを浮かべた……ように見えた。鱗に覆われた頬が動き、鋭い瞳が柔らかく揺れる。
「……ならば、好きにすればいい。わたしも、少しばかりお前に期待してみよう……。」
その言葉が、私の胸に灯火をともす。エドラー伯爵夫人の凶行は許せないが、結果的にあの人たちのおかげで、公爵と私の距離がさらに近づいたのだとしたら……。
(ざまあ、というよりも――これはわたしがようやく手にした“始まり”なのかもしれない。)
その後、エドラー伯爵夫人と従者は王都へ送られ、呪薬の不法所持や公爵家への危害未遂の罪で厳しい審問を受けることになった。裁判の結果次第では、伯爵家としての地位を失う可能性もあるという。エミリアや伯爵本人がどうなるかは定かではないが、少なくとも公爵家との縁談が再び持ち上がることはないだろう。
王都の社交界ではさっそく噂が駆け巡り、「エドラー家の奥方が、化け物公爵に呪いをかけようとしたらしい」「婚約者ノインに嫉妬して、呪殺しようとしたのだ」と囁かれているらしい。伯爵家は没落の一途を辿るかもしれない。まさしく“ざまぁ”といえばそれまでだ。
私はというと、公爵邸での日々を重ねながら、徐々に“解呪”の可能性を探っている。直接的な魔術の知識はないが、私の“手当て”によって公爵の体の一部が一瞬だけ人間らしい色に戻ったこともあった。ただし、ほんの数秒で元に戻ってしまったけれど……。
それでも公爵は、「悪くない。まだ試す価値はありそうだ」と言ってくれる。夜には執務の合間を縫って私の部屋を訪ねてきたり、逆に私が執務室へ行くこともあるようになった。公爵が少しずつ心を開いてくれるのを感じるたび、私の胸は温かいもので満たされる。
(もし、本当に呪いが解けたら……彼はきっと美しい姿になるのだろう。それを見たい、という好奇心もある。でも何より、呪われた外見から解放されて、彼がもう孤独に苦しまなくなるなら……。)
私の中で膨らむ願いは一つ。公爵に“幸せ”になってほしい。化け物などと言われることのない世界で、堂々と人生を享受できるように――。
そして、同時に、私自身も……。
(公爵閣下のそばにいて、ただの“身代わり”じゃなく、真の意味での“花嫁”になれる日が来るのだろうか。)
その希望が叶うかどうか、今はまだわからない。だけど、少なくとも私はもう一人ではない。公爵がいて、ラドクリフやマリオン、そしてロイたちが、私を公爵夫人となる未来へと支えてくれている。
――伯爵家が呪薬騒動で自滅し、事実上の破滅を迎えたことで、私を追い詰める“いじめ”や“不安”は消え去った。あの醜い運命から解放された瞬間、私の人生は大きく舵を切ったのだと思う。
部屋の窓辺に立ち、夕暮れに染まる空を見上げながら、私はそっと瞼を閉じる。伯爵家では決して味わえなかった安堵感。孤児院でも感じられなかった“守られている”という感覚。
(これが……わたしの、新しい生き方……。)
その背後で、ノックの音がした。おそらく、公爵が来てくれたのだろう。私が「どうぞ」と声をかけると、ゆっくりと扉が開く。鱗と角を持つ“化け物”の姿――でも、もう以前ほどの恐怖は感じない。
「……悪いな、少し仕事が長引いた。……例の“力”を試してみるか?」
少し気恥ずかしそうに私を見つめる公爵。その瞳の奥には、確かな期待の光が宿っているように見えた。私は恥ずかしさを隠しきれず、ぎこちなく微笑む。
「はい。わたしで、よければ……。」
――そして、私は彼の手を握る。わずかにザラリとした鱗の感触。でも、その奥には確かな体温がある。呪いはまだ解けない。だけど、この温かさが、いつか呪いを打ち破る日を迎えるかもしれない。
かつては“みそっかす”と呼ばれ、孤児院で誰にも必要とされなかった私が、今こうして、たった一人の“愛する人”を救うために生きている。それだけで、世界が違って見えた。
(ざまあ、なんて言葉で終わらせたくない。彼らを踏み台にした――なんて思い方もしたくない。ただ、今はこの手を離さず、前を向いて歩いていくんだ。……公爵閣下と、わたしの未来のために。)