「イナ妃様。お噂によりますと、見惚れるほどに美しい娘がいるようにございます」
「書も詩も学び、農家の娘にしては尋常でない教養を持つとか……」
侍女は、熱のこもった声でそうささやいたのでございます。
「その娘の名は?」
「スハと申すようです。農村の片隅で暮らしており、妃候補として交換されるはずの娘の一人だとか」
「年齢は、十歳かと」
「ただ、一つ気になることが……。それは、身なりが……男の子のようなのです」
イナ妃様は、自らの野心のもとに確立された『
この制度とは、女児が十五歳を迎えたとき、母である妃が正式な「后候補」として名を残すものにございます。
「男の子だとしてもよろしいのでしょうか」
「構わぬ。どちらにしても使い道はあるであろう」
「スハを、連れに参る」
イナ妃様は、その制度が生み出す娘たちを、ただの利用価値ある駒としてしか見ておられませんでした。
イナ妃の命令は、宮廷の空気を凍てつかせたのでございます。
そのお言葉は、まるで冷たい刃のように……。
侍女は、その命に、全身の血の気が引いていくのを感じておりました。
「かしこまりました」と絞り出すのがやっとで、何が始まるのかという底知れぬ恐怖に苛まれながら、その場を辞したのでございます。
* * *
その頃、宮廷庭園では、柔らかな春の日差しに包まれていた。
石畳の隙間から伸びた細い雑草をむしりながら、ひとりの少女が膝をついていた。
名を、ココロという。
「はあ……また庭掃除か。腰が痛くなりそう」
この庭には、まれに季節外れの花が咲く──
そんな噂を、祖母が
町外れの丘に建つ、祖母が営む百花庵。
表向きは心の悩みを解きほぐす
でも、少し変わった相談所だ。
花の咲き方や香りから、心の揺れを読み取る。
祖母は「少し見てきなさい」とだけ言って、この宮廷へ送り出した。
──たぶん、それは建前で、本当は、この庭で“
(でも、兄も姉もいるのに、なぜ私だけ?)
そんな疑問を胸に抱えながらも、手は止めなかった。
香を嗅ぐことも、花壇に踏み入ることも許されない庭掃除の身分。
それでも、祖母の教えが、ココロの中に根を張っている。
庭には、異様な静けさがあった。
裏道で聞いた下女たちのひそひそ話が、耳に残る。
「また“あれ”が来たらしいよ」
「ほんと? 今度は上の御方が直接……」
──何かが、起きている。
けれど、確かめる術がない。
畑にも花壇にも勝手に足を踏み入れられず、香りの違いを嗅ぎ分けることすら許されない。
(ならば、身分上げの申し立てをするしかない)
祖母の教えを思い出しながら、ふと視線を少し上げたそのとき
――涼やかな紫に、かすかな青を滲ませた小さな花が、春の庭にぽつりと咲いていた。
しゃがみ込んで、そっと指先で花びらをなぞる。
――
ココロは、小さく首を傾げた。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」
誰かが、誰かのために咲かせたのだろうか。
春に咲いたこの花も、また「交換される花」なのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さなひっかかりが生まれた。
それは、香の記憶のように、言葉にならない感覚だった。
そしてココロは知ることになる。
季節外れのその花が、「誰かの意思」で咲いたものであることを。
それが、ココロ自身の運命を、静かに引き寄せていた。
* * *
その頃、村では──
このイナ妃すらも、完璧ではなかった。
香りの奥に、スハの鼻腔は微かながらも確かな『綻び』の兆候を捉えていた。
その事実に、スハの心の奥に、静かな探究心が灯った。
「……イナ妃さまだ」
誰かが、蚊の鳴くような声で囁く。
それは、春の風が強く吹く日だった。
昔、風に乗って村に届いた噂があった。
『王宮では、娘を后にする道があるらしい。』
その言葉は、貧しい村人たちの間に、瞬く間に希望の炎を灯した。
『でもさ、花っていっても、ほんとの“華”と、そうじゃない花があるんだってね』
『字は読めないけど、上の御方の華は“きらきらした”華でしょ。あたしたちみたいなとこから出されたのは……なんか、土の匂いのする花っていうか』
『……あんた、それ、口滑らせたら……』
『へーきよ、字がわかんないから区別なんかできやしないってば』
――“華(はな)”と“花(はな)”。
その言葉の響きだけが、スハの心に、ぼんやりとした輪郭を残していた。
その言葉が、やがて自分の運命と重なるとは、知る由もなかった。
立ち並ぶ家々の影の向こうに、突如、巨大な影が滑るように現れた。
大勢の人に担がれた、背の高い黒塗りの輿。
村の細い道を、大地を揺るがすかのように進み、やがてスハが墨を摺る縁側の目の前で、静かに降ろされた。
ゆっくりと開く輿の扉。
絹の裾が地を払う。
光をはじく銀の衣。
しなやかな動き。
堂々とした立ち居振る舞い。
陶器のように白い肌は、化粧は薄く、むしろその素顔の完成度を際立たせるかのようだった。
その整いすぎた美しさ、完璧すぎる姿。
この世の者とは思えぬほどどこか非人間的で、近づきがたい気配を放っていた。
口元は常に穏やかな微笑みを湛えている。
その瞳の奥には、感情の
「このたびは、急なことながら、そなたを
イナ妃の声は、静かにスハの耳に届いた。
縁側で墨を摺っていた手を止めた。
その手にあるのは、ご婦人が与えた教えの象徴とも言える、摺り慣れた墨と筆。
その瞳は冷静だった。
「……準備など、なにも」
微かに眉を寄せ、スハが呟くように言うと、イナ妃は穏やかに微笑んだ。
「心の準備など、できている者はおらぬ。――ゆるりと歩み出せばよいのだ」
その言葉は、優しさの中にも確かな重みがあった。
イナ妃の香りは、清らかな白百合のような甘さに、微かに香るドクダミの苦味が混ざり合った、複雑な香りだった。
それは、見る者を惹きつけながらも、近づけば毒に侵されるかのような危険な魅力を秘めていた。
その香りの奥に、かすかなもの寂しさと、決して揺らぐことのない硬質な芯のようなものがあった。
積み重ねてきた苦難と、それを乗り越えてきた者だけが持つ、紛れもない「覚悟」の香りだろうとスハは思った。
かつてご婦人が教えた言葉が、スハの記憶にひそやかに響いていた。
『香は、言葉よりも雄弁に人を語る――
混濁は心の偽り、覚悟は真の強さ、そして微かな綻びは揺らぎ――人の本質は、香に宿る。
そして、この世には扉を開くための鍵の香りも存在する。
それは、誰もが嗅ぎ分けられるものではない』
母は不安げな面持ちでスハを見つめていた。
その瞳の奥には、娘を差し出す悲しみと、これから家に来るであろう見知らぬ高貴な宮廷の男の子を、育てていけるのかという、途方もない重圧が滲んでいた。
年若い弟は戸口で声を震わせている。
「お前、ほんとに行くのか?」
スハは、何も言わず、弟の頭に手を置いた。
これが、最後の別れの言葉代わりに。
何も持たなくてよかった。
農家の娘にとって、差し出すものも、持っていくものも、元より少ない。
その手に握れるのは、たった一本の筆と、摺り慣れた墨。
胸に刻まれたあのご婦人の言葉だけ。
もともと手放すものなど、ほとんど持っていないのだ。
この国の「交換制度」の通りに選ばれたのではない。
イナ妃が、スハの「香」を読み、何か別の目的のために、この場所へと招いたのだ。
言葉ではなく、妃から放たれる香りの奥にある意図。
この選択が『交換』という名の『指名』なのだとスハは感じ取っていた。
春の風が、干しかけの布を揺らす。
そして、スハは、故郷の景色を背に、振り返ることなく去った。
* * *
数日の旅路だった。
土埃の舞う道を進み、幾つもの村を越え、やがて視界が開けた先に、王都の煌びやかな城壁が見えてきた。
その庭の奥に、ひときわ静かに佇む一画。
后の座を目指す娘たちが集められる、王宮の庭の奥にある離れ。
通称『
門をくぐった瞬間、鼻腔を刺すのは、甘く重たい香だった。
それは、毒々しいほどの甘い蜜の香りに、枯れた草の匂いが混じり合ったような混濁した香。
その奥には、微かに焦げ付くような、嫉妬と憎悪の香りが隠されていた。
だが、そこに集まる少女たちのすべてが「花」ではなかった。
庭には、彩り鮮やかな衣をまとう少女たち。
舞を踊り、詩を詠み、書をたしなむ所作は、すべて「見られること」を前提としていた。
歩き方、笑顔、言葉の節回し──訓練された外面の香ばかりが漂う。
スハは、ひときわ目立っていた。
男装のまま、誰の視線にも媚びず、ただ静かに歩いた。
髪は束ねず、衣は地味。
その姿は、館の空気に強い違和感を与えた。
侍女たちはひそひそとささやき合い、他の娘たちは露骨に距離を取った。
「あれ、男の子じゃないの?」
「まさか。花館には女しか入れないわ。でも……」
「変な子。こんな格好で、后になる気があるのかしら」
「でも、あの格好を見たら……男の人と間違えるのも無理ないわよね」
「あのような身なりなのに、すごく綺麗ないい香りがするの……」
(ここは、偽りの香ばかりだ)
スハの鼻腔に残るのは、化粧や装飾では覆えぬ、本質への違和感だった。
飾り立てた少女の舞に、香りの輪郭は曖昧で、本人の姿が見えない。
書を好む者の筆致には、焦燥が滲む。
香は嘘をつかない──スハの感受がそう告げていた。
* * *
スハに与えられた部屋は、
簡素ながらも清潔で、窓からは手入れの行き届いた庭が見える。
その美しさは、スハの心に安らぎをもたらすことはなかった。
与えられた部屋の窓から、ふと庭を見下ろすと、一輪だけ、ぽつんと咲く花があった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った館。
それでも遠くで響くかすかな足音や、隣室から漏れる嘆息で、息を潜めているかのようだった。
(
春には咲かぬはずのその花に、スハは目を細めた。
その花から立ち上る香りは、悲しみと揺るぎない愛情を秘めていた。
館に満ちる混濁した香りとは、明らかに異質。
この館には、制度の綻びが潜んでいる。
その香を嗅ぎ分けられる者──
それは自分かもしれない。
「この館も、季節を間違えた花ばかりだ」
口元に、かすかな皮肉が浮かんだ。
……交換された花か? 誰の意思で?
(つづく)