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第2話:交換の花、指名の香り

「イナ妃様。お噂によりますと、見惚れるほどに美しい娘がいるようにございます」

「書も詩も学び、農家の娘にしては尋常でない教養を持つとか……」

侍女は、熱のこもった声でそうささやいたのでございます。


「その娘の名は?」

「スハと申すようです。農村の片隅で暮らしており、妃候補として交換されるはずの娘の一人だとか」

「年齢は、十歳かと」

「ただ、一つ気になることが……。それは、身なりが……男の子のようなのです」


イナ妃様は、自らの野心のもとに確立された『交換花譚制度こうかんかたんせいど』の成功を、確信しておられました。

この制度とは、女児が十五歳を迎えたとき、母である妃が正式な「后候補」として名を残すものにございます。


「男の子だとしてもよろしいのでしょうか」

「構わぬ。どちらにしても使い道はあるであろう」

「スハを、連れに参る」


イナ妃様は、その制度が生み出す娘たちを、ただの利用価値ある駒としてしか見ておられませんでした。


イナ妃の命令は、宮廷の空気を凍てつかせたのでございます。


そのお言葉は、まるで冷たい刃のように……。


侍女は、その命に、全身の血の気が引いていくのを感じておりました。

「かしこまりました」と絞り出すのがやっとで、何が始まるのかという底知れぬ恐怖に苛まれながら、その場を辞したのでございます。


* * *



その頃、宮廷庭園では、柔らかな春の日差しに包まれていた。

石畳の隙間から伸びた細い雑草をむしりながら、ひとりの少女が膝をついていた。


名を、ココロという。


「はあ……また庭掃除か。腰が痛くなりそう」


この庭には、まれに季節外れの花が咲く──

そんな噂を、祖母が百花庵ひゃっかあんに来た貴婦人から聞きつけたらしい。


町外れの丘に建つ、祖母が営む百花庵。

表向きは心の悩みを解きほぐすいおり

でも、少し変わった相談所だ。

花の咲き方や香りから、心の揺れを読み取る。


祖母は「少し見てきなさい」とだけ言って、この宮廷へ送り出した。

──たぶん、それは建前で、本当は、この庭で“”を見つけてこい、ということなのだろう。


(でも、兄も姉もいるのに、なぜ私だけ?)


そんな疑問を胸に抱えながらも、手は止めなかった。

香を嗅ぐことも、花壇に踏み入ることも許されない庭掃除の身分。

それでも、祖母の教えが、ココロの中に根を張っている。


庭には、異様な静けさがあった。

裏道で聞いた下女たちのひそひそ話が、耳に残る。


「また“あれ”が来たらしいよ」

「ほんと? 今度は上の御方が直接……」


──何かが、起きている。


けれど、確かめる術がない。

畑にも花壇にも勝手に足を踏み入れられず、香りの違いを嗅ぎ分けることすら許されない。


(ならば、身分上げの申し立てをするしかない)


祖母の教えを思い出しながら、ふと視線を少し上げたそのとき

――涼やかな紫に、かすかな青を滲ませた小さな花が、春の庭にぽつりと咲いていた。


しゃがみ込んで、そっと指先で花びらをなぞる。


――の花? 秋に咲くはずじゃ?

ココロは、小さく首を傾げた。


リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」


誰かが、誰かのために咲かせたのだろうか。

春に咲いたこの花も、また「交換される花」なのかもしれない。


そう思った瞬間、胸の奥に小さなひっかかりが生まれた。

それは、香の記憶のように、言葉にならない感覚だった。


そしてココロは知ることになる。


季節外れのその花が、「誰かの意思」で咲いたものであることを。

それが、ココロ自身の運命を、静かに引き寄せていた。


* * *


その頃、村では──


このイナ妃すらも、完璧ではなかった。


香りの奥に、スハの鼻腔は微かながらも確かな『綻び』の兆候を捉えていた。

その事実に、スハの心の奥に、静かな探究心が灯った。


「……イナ妃さまだ」

誰かが、蚊の鳴くような声で囁く。


それは、春の風が強く吹く日だった。


昔、風に乗って村に届いた噂があった。


『王宮では、娘を后にする道があるらしい。』


その言葉は、貧しい村人たちの間に、瞬く間に希望の炎を灯した。


『でもさ、花っていっても、ほんとの“華”と、そうじゃない花があるんだってね』


『字は読めないけど、上の御方の華は“きらきらした”華でしょ。あたしたちみたいなとこから出されたのは……なんか、土の匂いのする花っていうか』


『……あんた、それ、口滑らせたら……』


『へーきよ、字がわかんないから区別なんかできやしないってば』


――“華(はな)”と“花(はな)”。


その言葉の響きだけが、スハの心に、ぼんやりとした輪郭を残していた。


その言葉が、やがて自分の運命と重なるとは、知る由もなかった。


立ち並ぶ家々の影の向こうに、突如、巨大な影が滑るように現れた。

大勢の人に担がれた、背の高い黒塗りの輿。

村の細い道を、大地を揺るがすかのように進み、やがてスハが墨を摺る縁側の目の前で、静かに降ろされた。


ゆっくりと開く輿の扉。

絹の裾が地を払う。

光をはじく銀の衣。

しなやかな動き。

堂々とした立ち居振る舞い。

陶器のように白い肌は、化粧は薄く、むしろその素顔の完成度を際立たせるかのようだった。


その整いすぎた美しさ、完璧すぎる姿。

この世の者とは思えぬほどどこか非人間的で、近づきがたい気配を放っていた。


口元は常に穏やかな微笑みを湛えている。

その瞳の奥には、感情の機微きびを読み取らせない、氷のように冷たい輝きが宿っていた。


「このたびは、急なことながら、そなたを花館はなかんへ迎えに参った。」


イナ妃の声は、静かにスハの耳に届いた。


縁側で墨を摺っていた手を止めた。

その手にあるのは、ご婦人が与えた教えの象徴とも言える、摺り慣れた墨と筆。


その瞳は冷静だった。


「……準備など、なにも」


微かに眉を寄せ、スハが呟くように言うと、イナ妃は穏やかに微笑んだ。


「心の準備など、できている者はおらぬ。――ゆるりと歩み出せばよいのだ」


その言葉は、優しさの中にも確かな重みがあった。


イナ妃の香りは、清らかな白百合のような甘さに、微かに香るドクダミの苦味が混ざり合った、複雑な香りだった。

それは、見る者を惹きつけながらも、近づけば毒に侵されるかのような危険な魅力を秘めていた。


その香りの奥に、かすかなもの寂しさと、決して揺らぐことのない硬質な芯のようなものがあった。

積み重ねてきた苦難と、それを乗り越えてきた者だけが持つ、紛れもない「覚悟」の香りだろうとスハは思った。


かつてご婦人が教えた言葉が、スハの記憶にひそやかに響いていた。


『香は、言葉よりも雄弁に人を語る――

混濁は心の偽り、覚悟は真の強さ、そして微かな綻びは揺らぎ――人の本質は、香に宿る。

そして、この世には扉を開くための鍵の香りも存在する。

それは、誰もが嗅ぎ分けられるものではない』


母は不安げな面持ちでスハを見つめていた。

その瞳の奥には、娘を差し出す悲しみと、これから家に来るであろう見知らぬ高貴な宮廷の男の子を、育てていけるのかという、途方もない重圧が滲んでいた。


年若い弟は戸口で声を震わせている。


「お前、ほんとに行くのか?」


スハは、何も言わず、弟の頭に手を置いた。

これが、最後の別れの言葉代わりに。


何も持たなくてよかった。

農家の娘にとって、差し出すものも、持っていくものも、元より少ない。


その手に握れるのは、たった一本の筆と、摺り慣れた墨。

胸に刻まれたあのご婦人の言葉だけ。


もともと手放すものなど、ほとんど持っていないのだ。


この国の「交換制度」の通りに選ばれたのではない。

イナ妃が、スハの「香」を読み、何か別の目的のために、この場所へと招いたのだ。


言葉ではなく、妃から放たれる香りの奥にある意図。

この選択が『交換』という名の『指名』なのだとスハは感じ取っていた。



春の風が、干しかけの布を揺らす。


そして、スハは、故郷の景色を背に、振り返ることなく去った。



* * *




数日の旅路だった。


土埃の舞う道を進み、幾つもの村を越え、やがて視界が開けた先に、王都の煌びやかな城壁が見えてきた。


その庭の奥に、ひときわ静かに佇む一画。

后の座を目指す娘たちが集められる、王宮の庭の奥にある離れ。

通称『花館はなかん』。


門をくぐった瞬間、鼻腔を刺すのは、甘く重たい香だった。


それは、毒々しいほどの甘い蜜の香りに、枯れた草の匂いが混じり合ったような混濁した香。

その奥には、微かに焦げ付くような、嫉妬と憎悪の香りが隠されていた。


だが、そこに集まる少女たちのすべてが「花」ではなかった。


庭には、彩り鮮やかな衣をまとう少女たち。

舞を踊り、詩を詠み、書をたしなむ所作は、すべて「見られること」を前提としていた。

歩き方、笑顔、言葉の節回し──訓練された外面の香ばかりが漂う。


スハは、ひときわ目立っていた。


男装のまま、誰の視線にも媚びず、ただ静かに歩いた。

髪は束ねず、衣は地味。

その姿は、館の空気に強い違和感を与えた。


侍女たちはひそひそとささやき合い、他の娘たちは露骨に距離を取った。


「あれ、男の子じゃないの?」

「まさか。花館には女しか入れないわ。でも……」

「変な子。こんな格好で、后になる気があるのかしら」

「でも、あの格好を見たら……男の人と間違えるのも無理ないわよね」

「あのような身なりなのに、すごく綺麗ないい香りがするの……」


(ここは、偽りの香ばかりだ)


スハの鼻腔に残るのは、化粧や装飾では覆えぬ、本質への違和感だった。


飾り立てた少女の舞に、香りの輪郭は曖昧で、本人の姿が見えない。

書を好む者の筆致には、焦燥が滲む。


香は嘘をつかない──スハの感受がそう告げていた。



* * *



スハに与えられた部屋は、花館はなかんの奥まった場所にひっそりと佇んでいた。


簡素ながらも清潔で、窓からは手入れの行き届いた庭が見える。

その美しさは、スハの心に安らぎをもたらすことはなかった。


与えられた部屋の窓から、ふと庭を見下ろすと、一輪だけ、ぽつんと咲く花があった。


昼間の喧騒が嘘のように静まり返った館。

それでも遠くで響くかすかな足音や、隣室から漏れる嘆息で、息を潜めているかのようだった。


……?)


春には咲かぬはずのその花に、スハは目を細めた。


その花から立ち上る香りは、悲しみと揺るぎない愛情を秘めていた。

館に満ちる混濁した香りとは、明らかに異質。


この館には、制度の綻びが潜んでいる。


その香を嗅ぎ分けられる者──


それは自分かもしれない。


「この館も、季節を間違えた花ばかりだ」

口元に、かすかな皮肉が浮かんだ。


……交換された花か? 誰の意思で?



(つづく)

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