「あんな汚らわしい身なりなのに、書物なんて読めるのかしら?」
書庫の静寂を切り裂いたのは、ひとりの少女の
「本当に、あの妃様がお迎えした人なのかしら? まだ男物の衣のままだなんて」
「まさか、勘違いで花館に連れてこられたんじゃない?」
スハは、嘲りの香りを放つ少女たちを静かに見つめた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「書物も、香りも、見かけで判断できるものではありませんから。」
スハの言葉に、少女たちの背筋が凍りついた。
その香りが、一瞬にして恐怖と困惑に変わった。
少女たちは何も言い返せず、ただ慌てて書庫を出て行った。
花館の少女たちは、王宮の書庫での学問の日を迎えていた。
薄暗く、埃っぽい書庫は、花館の華やかさとは対照的だ。
静かな空気に満ちた書庫で、少女たちは与えられた書物にそれぞれ向き合っていた。
熱心にページを繰る者、ひそひそとスハを罵る者、
そして、遠巻きにスハを見つめるだけの者──。
その光景は、一見穏やかでありながら、様々な感情の香りが静かに渦巻いているようだった。
書庫は、花館で唯一、偽りの香りが存在しない場所だった。
その静寂は、時を超えて語りかける、真実の声に満ちているかのようだった。
スハは、特定の書棚に引き寄せられた。
そこには、国の歴史や、歴代の妃たちの記録、
そして香に関する古い文献が、ひっそりと収められていた。
漂うのは、乾いた紙の香、墨のかすかな残った香──
けれどその奥に、微かな時の流れによって薄れかけた気配が混ざっていた。
この書庫は、香で覆い隠された花館の真実を、静かに保管しているのだとスハは感じた。
書物を開けば、誰かの指先が辿った跡。
書き手の情熱。
忘れられた意図の香り。
その棚の奥に、布に包まれた古びた巻物を見つけた。
手に取ると、紙の香ではない、錆びた鉄と、土に埋もれた花のような、強い
それは、怒り、悲嘆、そして決して忘れられることのない決意を秘めた、告発に似たような香りだった。
ページの隅に、小さく折り込まれた紙片──
少女の手による、かすれた詩が綴られていた。
その筆跡は、后候補たちが学ぶ文字とは異なり、どこか専門的で、公的な記録を扱う者に似ていた。
『わたしは、舞うことを知らない
香ることを許されない
選ばれぬ花は、土に落ちる
土の奥で、誰にも知られず香る』
その香には、恨みと嫉妬を超えた無力感が染み込んでいた。
スハの胸に、静かな痛みが広がった。
それは、舞も香も許されなかった、ひとりの女性の悲しみ。
制度という名の土の下に埋もれ、誰にも知られず消えていった、無数の声の響きだと感じた。
(この館には──
香とともに、消えた声がある)
そう、嗅ぎ取った。
次に巻物に描かれていたのは、幼い二人の子供を抱きしめる一人の妃の姿だった。
その顔は、スハがかつて川辺で出会ったご婦人──酷似していた。
スハは、思わず息をのんだ。
あの時の優しく、温かい香りが、巻物から立ち上るように感じられた。
『双子を産んだ妃、
「この香りは……」
スハがかつてご婦人の教えの中で感じた、混濁した香りに紛れていない、唯一の真実の香りだった。
(やはり……あの時のご婦人だ……!)
絵の片隅には、黒い墨で塗りつぶされた、もう一人の人物の痕跡が不自然に残されていた。
その部分に指を這わせた途端、香が立ち上った。
強烈な後悔。
引き裂かれるような絶望。
そして、消された者への深い愛情。
『男児しか産めなかった妃、
この香りは、
彼女が男児を産みながらも幸せになれなかった、制度の犠牲になった悲劇の香りだとスハは感じ取った。
巻物を読み進めてより強く感じた。
香を通じて、それが見えた。
墨よりも強く語る香の記憶。
そこには、制度の矛盾、イナ妃の歪んだ執着、一つの事実が……。
双子の娘を産んだ
二人を隔てた壁、それは、ただの嫉妬ではなかった。
震える手で巻物をそっと閉じた。
これが、自分が嗅ぎ分けるべき「制度の綻び」だった。
ご婦人の言葉、イナ妃の香りの奥に潜む『綻び』、あの夜、アヨンが語った「可哀想に」という口の動き。すべての点が、この巻物によって一つの線へと繋がった。
その香りの記憶は、あまりにも重く、悲しかった。
消された者の絶望と、残された者の深い愛情。
スハの胸に、静かな痛みが広がる。
背後から、澄んだ声が聞こえた。
「あら、こんなところにいたのね」
気配も香りも感じなかったその声に、スハは、はっとして振り返る。
そこに立っていたのは、アヨンだった。
アヨンは、柔らかな笑顔を浮かべたまま、スハの手元に視線を落とした。
その視線が、スハが持っている古びた巻物へと向けられる。
「…珍しいわ」
その声には、親切な響きがあった。
スハの鼻腔は、アヨンの香りの奥に、先ほどよりも鋭く、そして冷たい警戒の香りを嗅ぎ取っていた。
誰にも見向きもされず、埃をかぶっていた巻物への、かすかな驚きがにじんでいた。
この書庫にいる誰もが、歴史や過去の真実よりも、后になるための学問にしか興味がなかった。
そんな中で、スハだけが、香りが示す「真実」に導かれていたのだ。
スハは、巻物を隠すように背中へ回す。
「……いいえ、少し、迷っただけです」
「そう。もうそろそろ日課の時間よ。戻りましょう」
アヨンはそう言って、スハの隣に並び、静かに歩き出した。
「……あなたのその衣、まだ解かないの?」
アヨンが静かに問いかけた。
スハは、アヨンの言葉の裏に隠された真意を読み取ろうと、静かに香りを嗅いだ。
「宮廷の者になる気がないからです。……皆も私のことをそう言います」
アヨンは、その言葉に小さく頷いた。
「そうね。あなたのような特別な子が、そう言われてしまうのも無理はないわ」
その心は、今、知ってしまった真実と、目の前を歩く少女の香りの両方に、強く揺さぶられていた。
この館の真実は、容易に嗅ぎ分けさせてはくれない。
だが、もう後戻りはできない。
スハは、深く息を吸い込んだ。
(この巻物の真実を、皆は知っているのだろうか……)
(つづく)