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第4話:偽りの香りが存在しない場所

「あんな汚らわしい身なりなのに、書物なんて読めるのかしら?」


書庫の静寂を切り裂いたのは、ひとりの少女のあざけるような声だった。彼女の声には、蜂蜜のような甘さの裏に、腐った果実のような悪意が隠されていた。


「本当に、あの妃様がお迎えした人なのかしら? まだ男物の衣のままだなんて」

「まさか、勘違いで花館に連れてこられたんじゃない?」


スハは、嘲りの香りを放つ少女たちを静かに見つめた。

そして、ゆっくりと口を開く。


「書物も、香りも、見かけで判断できるものではありませんから。」


スハの言葉に、少女たちの背筋が凍りついた。

その香りが、一瞬にして恐怖と困惑に変わった。

少女たちは何も言い返せず、ただ慌てて書庫を出て行った。



花館の少女たちは、王宮の書庫での学問の日を迎えていた。

薄暗く、埃っぽい書庫は、花館の華やかさとは対照的だ。


静かな空気に満ちた書庫で、少女たちは与えられた書物にそれぞれ向き合っていた。

熱心にページを繰る者、ひそひそとスハを罵る者、

そして、遠巻きにスハを見つめるだけの者──。

その光景は、一見穏やかでありながら、様々な感情の香りが静かに渦巻いているようだった。


書庫は、花館で唯一、偽りの香りが存在しない場所だった。

その静寂は、時を超えて語りかける、真実の声に満ちているかのようだった。


スハは、特定の書棚に引き寄せられた。

そこには、国の歴史や、歴代の妃たちの記録、

そして香に関する古い文献が、ひっそりと収められていた。


漂うのは、乾いた紙の香、墨のかすかな残った香──

けれどその奥に、微かな時の流れによって薄れかけた気配が混ざっていた。

この書庫は、香で覆い隠された花館の真実を、静かに保管しているのだとスハは感じた。


書物を開けば、誰かの指先が辿った跡。

書き手の情熱。

忘れられた意図の香り。


その棚の奥に、布に包まれた古びた巻物を見つけた。

手に取ると、紙の香ではない、錆びた鉄と、土に埋もれた花のような、強い香気こうきが立ちのぼった。

それは、怒り、悲嘆、そして決して忘れられることのない決意を秘めた、告発に似たような香りだった。


ページの隅に、小さく折り込まれた紙片──

少女の手による、かすれた詩が綴られていた。

その筆跡は、后候補たちが学ぶ文字とは異なり、どこか専門的で、公的な記録を扱う者に似ていた。


『わたしは、舞うことを知らない

香ることを許されない

選ばれぬ花は、土に落ちる

土の奥で、誰にも知られず香る』


その香には、恨みと嫉妬を超えた無力感が染み込んでいた。


スハの胸に、静かな痛みが広がった。

それは、舞も香も許されなかった、ひとりの女性の悲しみ。

制度という名の土の下に埋もれ、誰にも知られず消えていった、無数の声の響きだと感じた。


(この館には──

香とともに、消えた声がある)


そう、嗅ぎ取った。


次に巻物に描かれていたのは、幼い二人の子供を抱きしめる一人の妃の姿だった。

その顔は、スハがかつて川辺で出会ったご婦人──酷似していた。

スハは、思わず息をのんだ。

あの時の優しく、温かい香りが、巻物から立ち上るように感じられた。


『双子を産んだ妃、秀真スジン妃』と記されていた。


「この香りは……」

スハがかつてご婦人の教えの中で感じた、混濁した香りに紛れていない、唯一の真実の香りだった。

(やはり……あの時のご婦人だ……!)


絵の片隅には、黒い墨で塗りつぶされた、もう一人の人物の痕跡が不自然に残されていた。

その部分に指を這わせた途端、香が立ち上った。

強烈な後悔。

引き裂かれるような絶望。

そして、消された者への深い愛情。


『男児しか産めなかった妃、美蘭みらん妃』と記されている。

この香りは、美蘭みらん妃がただ消されたのではない。

彼女が男児を産みながらも幸せになれなかった、制度の犠牲になった悲劇の香りだとスハは感じ取った。


巻物を読み進めてより強く感じた。

香を通じて、それが見えた。

墨よりも強く語る香の記憶。

そこには、制度の矛盾、イナ妃の歪んだ執着、一つの事実が……。


双子の娘を産んだ秀真すじん妃と、男児を産んだ美蘭みらん妃。

二人を隔てた壁、それは、ただの嫉妬ではなかった。


震える手で巻物をそっと閉じた。

これが、自分が嗅ぎ分けるべき「制度の綻び」だった。


ご婦人の言葉、イナ妃の香りの奥に潜む『綻び』、あの夜、アヨンが語った「可哀想に」という口の動き。すべての点が、この巻物によって一つの線へと繋がった。


その香りの記憶は、あまりにも重く、悲しかった。

消された者の絶望と、残された者の深い愛情。

スハの胸に、静かな痛みが広がる。



背後から、澄んだ声が聞こえた。


「あら、こんなところにいたのね」


気配も香りも感じなかったその声に、スハは、はっとして振り返る。

そこに立っていたのは、アヨンだった。


アヨンは、柔らかな笑顔を浮かべたまま、スハの手元に視線を落とした。

その視線が、スハが持っている古びた巻物へと向けられる。


「…珍しいわ」


その声には、親切な響きがあった。

スハの鼻腔は、アヨンの香りの奥に、先ほどよりも鋭く、そして冷たい警戒の香りを嗅ぎ取っていた。

誰にも見向きもされず、埃をかぶっていた巻物への、かすかな驚きがにじんでいた。

この書庫にいる誰もが、歴史や過去の真実よりも、后になるための学問にしか興味がなかった。

そんな中で、スハだけが、香りが示す「真実」に導かれていたのだ。


スハは、巻物を隠すように背中へ回す。


「……いいえ、少し、迷っただけです」


「そう。もうそろそろ日課の時間よ。戻りましょう」


アヨンはそう言って、スハの隣に並び、静かに歩き出した。


「……あなたのその衣、まだ解かないの?」

アヨンが静かに問いかけた。


スハは、アヨンの言葉の裏に隠された真意を読み取ろうと、静かに香りを嗅いだ。


「宮廷の者になる気がないからです。……皆も私のことをそう言います」


アヨンは、その言葉に小さく頷いた。

「そうね。あなたのような特別な子が、そう言われてしまうのも無理はないわ」


その心は、今、知ってしまった真実と、目の前を歩く少女の香りの両方に、強く揺さぶられていた。

この館の真実は、容易に嗅ぎ分けさせてはくれない。

だが、もう後戻りはできない。


スハは、深く息を吸い込んだ。


(この巻物の真実を、皆は知っているのだろうか……)




(つづく)


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